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第48話 みんなに愛される心優しいヒロイン⑧

 異変が起きたのは、午後の授業が終わった直後だった。


 終業の鐘が鳴り響き、張り詰めていた教室の空気が一気に緩む。


 生徒たちは、それぞれ思い思いに校舎から出ていった。

 放課後の訓練へ向かう者。

 友人と談笑しながら街へ出る者。

 教室に残り、課題へ取り掛かる者。


 いつも通りの、ありふれた学園の午後。


 ――だからこそ。


 最初の“違和感”に気づいた者は、ほとんどいなかった。


 空気の奥で、何かが微かに軋んだ。

 そして、世界の皮膚がめくれるように、大気の底がびり、と不吉に震えだす。


「……え? 」


 誰かが怪訝そうに空を見上げた。

 次の瞬間。


 ――ブゥンッッ!!!!


 耳障りな振動音が、学園の敷地全体へと不気味に響き渡った。


「っ!?」


 一瞬にして、校舎全体に蜂の巣を突いたようなざわめきが走る。

 肌を刺す空気が、一変した。

 全身の産毛が総立ちになり、大気中の魔力の流れが、明らかに異常な狂い方をして乱れ始めていく。


「おい見ろ、学園外周の防壁の光が消えているぞ!」


 状況を察知した教師たちの顔色が、一瞬で蒼白に変わる。

 そして、その直後だった。

 防壁側の校舎のほうから、引き裂くような絶叫と悲鳴が風に乗って聞こえてきた。



「全員、ただちに校舎内へ退避!! 誘導に従え!!」


 割れんばかりの怒号が飛び交う。

 避難経路となった中央廊下は、一瞬にしてパニックを起こした生徒たちで最悪の混乱に包まれた。


 私とミレイアがいたのは、破壊された防壁に最も近い北棟だった。


「押すな! 押し合うな!」


「落ち着きなさい!!」


「魔物が侵入したぞ!!」


 その絶望的な単語が耳に飛び込んできた瞬間、学園の空気は凍った。


「……ま、魔物……? なんで、ここに……」


 ミレイアの顔から、一気に血の気が引いていく。

 生徒たちが、一斉に狭い出口へと狂ったように殺到する。

 泣き声、悲鳴、押し合う無数の足音。

 そこにはもう、貴族としての品性も統制も、何一つとして残されてはいなかった。


「ミレイア、早く行くわよ!」


「う、うん……っ、分かった……!」


 廊下の角を曲がろうとしたまさにその瞬間だった。


(……来た)


 ――ガァァァァァアアアアアッッ!!!!


 鼓膜を激しく震わせる、おぞましい獣の咆哮が、石造りの廊下に爆音となって反響した。


「ひっ……!?」


 凄まじい衝撃と共に、廊下の頑丈な石壁を粉々に突き破って現れたのは――漆黒の魔獣だった。

 大人の雄牛ほどもある巨体に、全身を覆う黒い硬質な体毛。砕け散った壁の粉塵と白煙の奥から、それはゆっくりと四肢を踏み鳴らして姿を現した。


 ランタンのように赤く爛々と輝く、狂気に満ちた双眸。

 ドロリとした涎を垂らす、鋭く剥き出しになった牙。

 その全身から立ち上る黒い瘴気は、触れるだけで肌が腐り落ちそうなほどだった。


「いやあああああ!! 魔物!! 魔物が出たわ!!」


 パニックに拍車がかかり、生徒たちが文字通り蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。

 近くにいた教師が咄嗟に攻撃魔法の呪文を唱えて放つが、肉厚な魔獣の突進を押し返しきることはできない。


「全員下がれ!! 全員逃げろ!!」


 必死の怒声が響く。教師たちは防御魔法に切り替え、生徒たちを避難させていく。


 ミレイアは、完全にその場に縫い付けられたように硬直していた。


「……っ」


 彼女の顔色は、幽霊のように真っ白に染まっている。

 その手にはしっかりと白い杖を握り締めているというのに、恐怖のあまり喉が引き攣って魔法を使うこともできない。

 呼吸も浅く、完全に過呼吸を起こしかけている。


(……あの子、まずい)


 杖を持つ指先が、小刻みにガタガタと震えている。こういう極限のパニック状態の時ほど、人間の魔力は体の奥底で冷たく凍りついて機能しなくなる。


 私は咄嗟に鋭い視線で周囲の状況を確認する。

 魔獣の巨体によって、唯一の安全な避難経路は完全に塞がれかけている。

 このままでは――


「ミレイア!!」


「え……?」


「こっちよ!今すぐ動いて!!」


「で、でも……足が、動かなくて……っ!」


 しかし、次の瞬間。魔獣が凄まじい爆風を巻き起こしながら、こちらへ向かって一直線に躍りかかってきた。


「っ――!!」


 まるで条件反射のようだった。

 私は思い切り両手を突き出し、硬直していたミレイアの身体を横へと力任せに突き飛ばした。


 直後、鋭い衝撃と痛みが、私の身体を貫いた。


 右の肩口から脇腹にかけて。

 肉と骨が、縦に一気に引き裂かれるような、焼けるような圧倒的な熱さが襲い来る。


「――あ、っ……」


 自分の身体のパーツが、嫌な音を立てて破壊される明確な感覚。

 視界が上下反転して激しく揺れ、私はそのまま、冷たい床へと激しく叩きつけられた。


「リリィ!!!!」


 ミレイアの狂ったような悲鳴が遠くで響いた。

 視界が赤く染まっていく。


「血が……! 誰か、回復魔法を使える者はいないのか!?」


「止血を急げ! 意識を保たせるんだ!」


「これ以上近寄らせるな! 魔物を前線で抑え込め!!」


 誰かが必死に叫んでいる。

 でも、耳の奥で激しい耳鳴りがして、言葉が上手く聞き取れない。

 右肩から脇腹にかけて、じりじりと焼けるように痛かった。


「……っ、ぁ、は……」


 うまく空気が吸えない。息が、苦しい。

 自分の体温が床に流れ落ちていく感覚と共に、視界が急速に滲んで狭くなっていく。


「リリィ!! やだ、やだ……っ!!」


  ミレイアがボロボロと大粒の涙を流し、取り乱しながら私のすぐ傍らへと駆け寄ってきた。

  私を見つめる彼女の顔は、見ているこちらが恐ろしくなるほどに青ざめていた。


「ごめん……っ、あたしのせいで、ごめんね……っ!あたしが、怖くて、動けなかったから……っ!」


 涙が彼女の頬を伝い、私の頬へと冷たく零れ落ちる。

 でも。私は喉の奥が血で塞がってしまって、うまく声が出せなかった。


 遠くのほうでは、まだ剣劇の音と大人の怒号が飛び交っている。


「まだ奥から別の魔物が来ているぞ!!」


「もうここはダメだ、逃げろ!!」


 混乱の渦は、まだ何一つとして終わっていない。

 みんなが私を置いて逃げていく中、ミレイアだけは、周囲の喧騒など目に入らないと言わんばかりに、私から頑なに目を離さなかった。


 ぎゅっと、床に転がる私の左手を、彼女は壊れ物のように両手で強く掴み込んできた。

 その小さな手のひらも、まるで痙攣するように激しく震えていた。


「リリィ、お願いだから死なないで……っ!!」


「……っ……報い、なのかもね……」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど、他人事のように落ち着いた声音だった。

 肺に残ったわずかな空気を絞り出すような、掠れた声。


「今まで……みんなを、不幸にしてきた……から……」


「なんで……っ! なんで今、そんなこと言うの……!!」


 ミレイアの泣き叫ぶ声が、水の中にいるようにどんどん遠くへと滲んでいく。

 急激な失血のせいで、視界が急速にブラックアウトしていく。

 身体の感覚が消え、意識の糸がぷつりと遠のいていく。


 闇に落ちる寸前、私の世界に最後まで残っていたのは。

 私を抱きしめたまま、泣き崩れるミレイアの顔だった。

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