第40話 また始まる日常
――すべてが終わった後、学園は妙に静かだった。
大物貴族の失脚という大事件の後処理が、水面下では慌ただしく続いている。
それなのに、生徒たちだけが感情を置き去りにされたように、校内には重苦しい沈黙が漂っていた。
「……これ、あたしのせいだよね」
お昼休みの中庭。
ミレイアが、消え入りそうな声でぽつりと呟いた。
手元のハーブティーのカップを見つめたまま、顔を上げようとしない。
「ユリウスに薬を渡したの、あたしだし……」
「それは違うわ、ミレイア」
私は彼女の言葉を、即座に否定した。
「あの薬は元々、市中に出回っている一般的な安眠薬を、クラウスが少しだけ強力に調合し直したものよ。危険性や依存性も周知されていた。だから、今回クラウスも法的な責任を問われる立場には一切ないのよ。もちろんあなただって……」
「でも……」
ミレイアは下唇をギュッと噛み締める。
「あたしが、もっとちゃんと考えて、説明していれば……ああはならなかったかもしれないし……」
それ以上は、私も言葉を続けることができなかった。
「リリアーナ様」
背後に控えていたリネットが、硬い空気を変えるように静かに声をかけてきた。
「少し、気分転換にお散歩へお出かけになってはいかがですか」
「……そうね」
「ミレイア様も、ご一緒に」
リネットの細やかな気遣いが、今の私にはとても有り難かった。
ずっと側にいてくれた彼女だからこそ、この重苦しい空気を敏感に察してくれたのだろう。
「……せっかくですし、少し城下の街にでも出てみましょうか」
今の私たちには、張り詰めた感情を切り替えるための時間が必要なのかもしれない。
◇
私たちは数日ぶりに城下の街へと繰り出した。
そこには、いつも通りの賑やかさが広がっていた。
行き交う人々の活気ある笑い声。
軒を連ねる屋台から漂う、香ばしい肉の匂い。
どこかのベーカリーが焼いているのだろう、焼き菓子の甘いバターの香りが、生温かい風に乗ってふわりと流れてくる。
学園の騒動など微塵も知らない、残酷なほどに何も変わらない世界。
「なんかさ……」
ミレイアは雑踏を見渡しながら、自虐気味に小さく笑った。
「ようやく、まともな日常に戻ってきた感じがするね」
「そうね」
賑やかな大通りを並んで歩きながら、私はふと、思考を巡らせる。
(……登場人物たちが次々と舞台から退場していっても、この世界は当たり前に続いていくのね)
ゲームの筋書きは、すでに原型を留めないほどに大きく崩れ去っている。
エドガーも、カイルも、ユリウスも、いない。
「ねえ、ミレイア」
「なに?」
「ゲームの本来のシナリオにあった、あの“世界の危機”って……これから先、まだ起こると思う?」
ミレイアは歩調を緩め、少しだけ真剣な顔で考えてから答えた。
「うーん……たぶん、もう大丈夫だと思うよ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「だって、リリアーナが魔王軍に協力して、古代魔獣を召喚しなければ、そもそも世界の危機は起きない設定だったし……今のリリィなら、絶対にそんな悪いことしないでしょ?」
彼女は「考えすぎだよ」と言わんばかりに、軽く笑う。
けれど、その無邪気な言葉に、ほんの少しだけ胸がざわついた。
「……そうね」
そのとき、何かを思い出したように、ミレイアが口を開いた。
「あ、でもさ!」
「なにかしら」
「確か、リリアーナが闇落ちして魔族側に寝返る理由ってさ、攻略対象たちとの不仲もあるけど……"お母さんの件"も関係あったよね?」
一瞬だけ、周囲の音が遠のいた。
通りを吹き抜ける風が、急激に冷たく凍りついたかのような錯覚。
「……っ」
喉の奥が、不自然に詰まる。
私は反射的に小さく息を呑み、歩く歩調が一瞬だけ乱れた。
――思い出したくなかった。
この身体の、本当の母親のこと。
確かにゲームの設定では、悪役令嬢リリアーナが魔族と手を組む動機は二つ存在していた。
一つは、周囲の人間から徹底的に孤立し、誰からも愛されなかったこと。
そしてもう一つは、最愛の母を理不尽に奪った、この人間の世界そのものへの激しい憎しみ。
けれど、私はすぐに表情を元へと戻した。
「そうね。あったわね、そんな設定も」
努めて淡々と、静かに答える。
「でも、母の件に関しては……悲しかったのは紛れもない事実だけれど」
私は一度言葉を切り、自分の胸に手を当てた。
「前世の記憶を完全に取り戻してからは、"リリアーナ"だけの感情ではなくなったから……前ほどは引きずっていないのかもしれないわ」
感情を一切混ぜずに、そう言った。
ミレイアを見ていると、前世の感覚の方が、ずっと強く残っているように思える。
「そっか……。それならよかった!」
ミレイアは少し安心したように笑う。
それからミレイアは、あのお菓子が食べたいとか、あの洋服が欲しいとか、いつも通りにはしゃぎ始めた。
少し、無理に日常に戻ろうとしているようにも見えた。
ひとしきりはしゃいだ後、私の少し前を歩いていたミレイアが、ふと足を止める。
「ねえ、ところでさ。リリィ」
「なによ」
少しだけ、意味深な間を置いて。
ミレイアは声をワントーン落とし、小さく言った。
「……リリィってさ。婚約者のレオンハルトのこと、好き?」
一瞬。
心臓が止まるような錯覚に陥った。
急に街の喧騒が遠くなり、視界が狭くなる。
西の空を真っ赤に染め上げる夕暮れの橙色が、なぜだかやけに目に刺さるように痛かった。
「……なんでそんなことを聞くの?」
横を向くと、質問してきたはずのミレイア自身が、なぜか顔を真っ赤にしていた。
「ミレイア……あなた、まさか……」
「ち、違うの!レオ様はなんて言うか、"推し"っていうか!あたし、推しに対してリアコとか絶対にしないタイプだから!!」
……うん、バレバレである。
必死になって早口で捲し立てる彼女の姿は、言い訳として完全に墓穴を掘っていた。
空は、夜に染まり始めていた。
当事者たちの感情だけが宙に浮いたまま、世界はいつも通りの速度で進んでいた。
次回から新章スタートです!
次の主役は……?




