第38話 誰もが惹かれる未来の宰相⑫
学園の正門を出て、賑やかな中央通りへと続く道。
夕闇に染まり始めた石畳に、三人分の足音が不揃いに響いていた。
ミレイアはいつものお気楽な調子で、私の少し前を歩いている。
「ねえねえリリィ、まずは雑貨屋さんから見に行こうよ!」
無邪気で、この場に似合わない明るい声。
ユリウスはその少し後ろで、ただ静かに歩いている。
私たちから、ほんの少しだけ距離を置いて。
でも確実に、離れない位置で。
(……ついてきてるみたい)
私は胸の動悸を悟られないよう、小さく息を吐き出した。
この男は今、明らかにおかしい。
けれどミレイアはそんな異変にこれっぽっちも気づかず、むしろ嬉しそうにしていた。
「ユリウスが一緒に来てくれて嬉しいな!最近、あんまり三人で一緒にいる時間がなかったからさ!」
「そう?」
ユリウスはかすかに口角を上げて微笑んだ。
けれど、その笑顔は、ガラス細工のようにひどく薄くて冷たい。
「なんだか今日は、落ち着かなくさ」
「へぇ?そんな日もあるんだねぇ」
「……うん」
短い、感情の籠もっていない相槌。
そのまま、彼の底冷えするような視線だけが、じっと私へと戻ってくる。
言葉にならない拒絶の警告が、喉の奥まで出かかる。
その時だった。
ユリウスが、ふいに足を止めた。
「……ねえ」
低く、地を這うような声音。
ミレイアが、不思議そうに振り返る。
「なに?」
「さっきから見ていたけれど……君たち、本当に仲が良いよね」
ユリウスは口元だけを綺麗に緩めていた。
けれどその目は笑っていない。
「え?普通じゃない?」
ミレイアは軽く笑う。
――そして、その無邪気な返答が、引き金となった。
ユリウスの指先が、わずかに空をなぞるように動く。
◇
――パキッ。
空間そのものが、悲鳴を上げるように軋んだ。
それは物理的な音ではない。
大気そのものが、肺を押し潰すような圧倒的な質量を帯び、世界の輪郭が歪む感覚。
「っ……!?」
急激に視界がぐにゃりと揺れる。
次の瞬間――周囲のすべての雑音が、完全に消え去った。
行き交う馬車の音も。人々の楽しげな話し声も。街の賑やかなざわめきも。
すべてが、ガラスの向こう側へと追いやられたように、完全に切り離される。
(――空間遮断魔法……!?)
気づいた時には、もう何もかもが遅すぎた。
ユリウスが、常人では視認すら不可能な速度で高位の結界魔法を展開していたのだ。
しかも、その術の対象は――私一人だけ。
「ミレイア!!どこ!?聞こえないの!?」
声を大にして叫んでも、届いている気配はない。
こちらの姿は見えておらず、声も一切届かないのだ。私とユリウスだけが完全に隔離された空間。
壁があるのではない。“世界そのものの位相が、切り離されている”のだ。
ユリウスが、静かに、一歩ずつ私へと近づいてくる。
その表情は、不気味なほどに静謐だった。
「……やっと」
ぽつりと、彼の唇から掠れた声が落ちる。
「二人きりになれたね」
その瞳は、まっすぐに私だけを射抜いていた。
「リリアーナ」
名前を呼ばれる。
いつもと同じ、私の名前。
なのに、そこに含まれる熱量が、今までとは致命的に違っていた。
「少し、話をしよう」
「……何のつもり?」
「ずっと、気になって仕方がなかったんだ」
彼がもう一歩、距離を詰める。
それに連動して、隔離された空間の魔圧がさらに膨れ上がり、私の呼吸を苦しくさせる。
「なぜ君は、僕を拒絶するの?」
「……私たちは、クラスメイトとして良好な関係を築いていたでしょう?」
ユリウスはふっと笑った。
けれどそれは、歪んだ所有欲に満ちた、到底笑顔とは呼べないものだった。
「君はあの日、僕への問いかけに『それ以上でも、以下でもない』って言ったよね」
心臓がドクリと跳ね、息が止まる。
あの放課後、彼からの探りに対して、私が何気なく返した冷たい言葉。
――”有能な貴族”。その一言。
「あれは本心なの?」
ユリウスは小首を傾げる。
「君は僕のことをどう思っているの?」
彼の声が、ほんの少しだけ子供のように激しく揺れる。
「僕はさ……ただ君に、僕のことだけを、ちゃんと見てほしかっただけなんだけどな」
周囲の空気が、さらに鉛のように重くなる。
彼の規格外の魔力が、暴走する感情に引きずられて、結界の内側を埋め尽くしていく。
「昔は……子供の頃は、仲良くしてくれていたのに」
ぽつりと、恨みがましい呪詛のように吐き出されたその言葉に。
(……っ!?)
その瞬間、私の背筋に、これまでにない強烈な悪寒が走った。
脳裏に、ずっと思い出さないようにしていた嫌な記憶が鮮烈によぎる。
子供の頃、社交界の片隅で、この男と何度か会っていた時期。
あの時の彼は、妙に距離が近くて、執着的で、私に対して……。
恐怖で喉が引き攣り、声が出せない。
手のひらがじわりと嫌な冷や汗で濡れていく。
全身の震えが止まらない。
抵抗したいのに、彼への恐怖から、身体が金縛りにあったように一歩も動けなかった。
「うん」
ユリウスは、私のその怯えた表情を見て、本当に嬉しそうに形良い唇を歪めた。
「ちゃんと……覚えていてくれたんだね。嬉しいよ」
彼の冷たい指先が、私の頬にそっと触れる。
ぞくりと、全身の毛穴が収縮するほどの恐怖が背筋を駆け抜けた。
――怖い。本気で、この男が怖い。
ユリウスに呼応するように、魔力がさらにもう一段階、爆発的に跳ね上がった。
空間がさらに狭く閉じ、完全に逃げ場が消滅する。
「……ユリウス、お願い、やめて……っ」
私は涙を堪えながら、ようやく掠れた声を絞り出した。
「やめる?」
ユリウスは心底不思議そうに、その美しい目を細める。
「やめる理由なんて、どこにもないよ。だって――」
彼の声音が、ゾッとするほど低く、昏く沈む。
「やっと、邪魔者が誰もいないんだから」
彼の指が私の唇へと触れようとした、まさにその瞬間だった。
「――そこまでだ、クラウゼン」
氷山を切り裂くかのような、酷く冷徹な男の声が響き渡った。
――バリィィィン!!!
激しい爆音と共に、遮断魔法の結界が、外側からの圧倒的な力によって強制的に粉砕された。
眩いばかりの白銀の剣圧が、隔離された世界を容赦なく引き裂く。
砕け散る光の破片の向こうから現れたのは。
――王太子、レオンハルト・ヴァルディアだった。
彼は大剣を構えたまま、鋭く、感情をほとんど映していない冷徹な瞳でユリウスを睨み据えていた。
「王太子、殿下……」
ユリウスは頬に触れていた手を引き、不快そうにその目を細めた。
「邪魔をしないでよ」
「……言いたいことは、それだけだか」
「拘束しろ」
レオンハルトの底冷えする一言と同時に、彼の背後に控えていた近衛魔導士たちが一斉に呪文を唱える。
次の瞬間、無数の光の鎖が展開され、ユリウスの身体を瞬時に、頑強に縛り上げた。
「……ははっ」
ユリウスは、身動きを封じられてもなお、笑っていた。
苦しそうな様子も、悲しそうな素振りも一切見せず、ただ空っぽの瞳で。
「遅いよ、レオンハルト……」
その言葉だけが、夕闇の静寂の中にやけに響き渡っていた。
◇
結界が解けたあとも、私はその場から一歩も動くことができなかった。
うまく息が吸えない。
ガタガタと震える足元の石畳が、ずいぶんと遠くに見える。
ミレイアは私の腕を強く掴み、わんわんと子供のように涙を流している。
ただ一つ、冷酷な事実として理解できたのは。
ユリウス・クラウゼンという男はもう、決して引き返せない暗闇の向こう側へと、完全に堕ちてしまったということだけだった。
ユリウス編、次回最終回です。
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