第37話 誰もが惹かれる未来の宰相⑪
最近のユリウスは、明らかにおかしかった。
けれど、その異変に本気で気づいているのは、おそらく私だけだ
「ねえリリィ、今日の放課後ちょっと街に行かない?」
お昼休み、ミレイアがいつもの気軽な調子で声をかけてくる。
「買いたいものがあるんだよね。付き合って!」
「……まぁ、いいけど」
私がそう頷いて返事をした、その瞬間。
肌を刺すような、妙に粘着質な視線を肌に感じた。
(……また、だわ)
さりげなく顔を上げると、少し離れた席にユリウスの姿があった。
彼はいつものように笑っている。
大勢の女子生徒たちに囲まれ、一人一人の機嫌を取るように柔らかく会話を交わしている。
なのに、彼の視線だけは、会話の相手ではなく、はっきりとこちらへ向けられている。
正確には――ミレイアと、私へ。
「ユリウスも一緒に来る?」
ミレイアが何気なく、遠くから声をかける。
ユリウスは一瞬だけ、動きを止めてから、ふっと優しく笑った。
「今日はやめておくよ」
軽やかな声音。でも、その笑顔を作るタイミングは、ほんの少しだけ不自然に遅れていた。
◇
学園の中庭。
ほとんど人通りのない、古い石造りのベンチにユリウスは深く背をもたれていた。
降り注ぐ午後の日差しは穏やかで温かい。なのに、彼の周囲だけが、別の世界みたいに冷えて見える。
その手元には、例の小さな遮光瓶。淡い青色の液体が、光を受けて静かに揺れていた。
「……」
ユリウスはそれを一気に喉へ流し込む。
冷たい感覚が身体の奥へ落ちていくと同時に、頭の中でうるさく鳴っていた雑音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
余計なことは、もう何も考えずに済む。
周囲の声も。羨望も嫉妬も。全部が薄い膜を隔てたみたいに遠い。
(少しは、ましだ……)
そう思った瞬間、自分がもう、この安らぎへ縋り始めていることを、ユリウスは理解してしまった。
けれど、頭がどれほどぼんやりとしても、胸の奥のドロドロとした塊だけは、完全には消え去ってくれない。
(さっきまで……あそこに二人はいたのに)
ミレイアとリリアーナ。
楽しそうに二人で並んでいた。ただ、それだけのことなのに。
思い出した瞬間、薬で押し込めたはずの感情が、胸の奥で再びじわりと滲み出してくる。
「……はは」
乾いた、自嘲の笑いが唇から漏れる。
その身を焼くような不快感を、力ずくで押さえ込もうとした、その瞬間だった。
――バキッ!!
ユリウスのすぐ近く。石柱の上へ置かれていた鉢植えが、突然ひび割れて崩れ落ちた。
「っ……」
ユリウスは息を呑み、自分の指先を見つめる。
今のは、無意識に漏れ出た、自分自身の魔力だ。
(まただ……)
最近、こういう異常が明らかに増えていた。
感情が大きく揺れ動くと、魔力が制御を失って外へと漏れ出してしまう。
制御はできる。でも、完全には抑えきれない。
気づけば、指先が無意識に空の小瓶を探していた。
そこでようやく、ユリウスは我に返る。
(……駄目だ)
これ以上、この薬へ依存するのは危険だ。
自分の理性が、明確にそう警告している。
分かっている。分かっているのに。
一度知ってしまった安らぎを、もう自分の力ではやめることができなかった。
◇
そして、放課後。
「リリィ!」
校門の近くで、ミレイアが荷物を抱えて駆け寄ってきた。
「今日、結局ユリウスは、あたしたちのところに一度も来なかったね」
「そうね……」
「なんか珍しい。いつもなら何だかんだ理由をつけて、すぐに顔を出すのにさ」
私は先日のユリウスとのやりとりを思い出していた。
やはりミレイアに打ち明けるべきだろうか。
「ミレイア、私ね……」
その言葉を紡ごうとした、まさにその時だった。
「……二人で、出かけるの?」
心臓が跳ね上がるのを覚えながら振り返ると、そこにはいつの間にか、ユリウスが立っていた。
その顔には、いつも通りの美しい笑顔。
なのに、周囲の空気だけが、まるで重たい泥みたいに、どろりと沈み込んでいく。
「え、うん!」
ミレイアだけが、いつも通りの能天気さで普通に答える。
「これから街へ買い物に行くとこ」
「ふぅん」
ユリウスは笑う。
その笑顔を作るタイミングは、いつもよりほんの少しだけ、不自然に遅れていた。
「……僕も一緒に行こうかな」
一瞬、空気が止まる。
「あれ?今日はやめとくって言ってなかった?」
ミレイアが不思議そうに首を傾げる。
ユリウスはその長い睫毛の奥にある目を、すうっと細めた。
「気が変わった」
短い、そっけない返事。
でも、その声には妙な重さがあった。
まるで、“そこにいないといけない理由ができた”とでも言うみたいに。
けれどミレイアは、相変わらずその変化に気づいていない。
「じゃあ三人で行こ!」
――最悪だわ。
喉の奥が、からからに乾いていく。
(……まずい。本当にまずい)
ユリウスの視線が、ずっと私へ向いていた。
話しかけられているミレイアではなく。
まるで、私がここから逃げ出さないかどうかを、じっと確認しているみたいに。
(これは……もう、“友達への嫉妬”なんかじゃない)
背筋を冷たいものが這い上がる。
どこかで線が、確実に越え始めていた。




