第36話 誰もが惹かれる未来の宰相⑩
一見すると順調だった。
最近のユリウスは、驚くほど穏やかに見える。
以前のように、常に誰かに囲まれているわけではない。
それでもそれなりに、そつのない人付き合いもするし、笑顔でうまくかわしたりもする。
派手な女遊びをしているような不穏な気配も、すっかり消え失せていた。
「ねえ、リリィ!ユリウス、最近本当に落ち着いてきたよね!」
ミレイアは自分の渡した薬のおかげだと言わんばかりに、本当に嬉しそうだ。
「……そう見える?」
「見える見える!前よりちゃんと休んでる感じがするし!よかったじゃん!」
ミレイアは無邪気に笑う。
私は手元の上質な紅茶をそっと口に含みながら、静かに視線を落とした。
(……休んでいる、というよりは)
(“現実から逃げる場所を見つけた”だけかもしれない)
喉まで出かかったその言葉は、あえて飲み込んだ。
◇
放課後。中庭の片隅。
石造りのベンチに、沈みかけた夕暮れの赤い光が斜めに長く差し込んでいた。
ユリウスは、そこに一人で静かに腰掛けていた。
いつもなら、彼の姿を見つけた瞬間に誰かしらが群がってくるような場所。
けれど今日の彼の周囲には、奇妙なほど誰も寄り付かない。
ユリウスは手元にある、一本の小さな遮光瓶を愛おしそうに見つめていた。
淡い、美しい青色の液体。
「……」
それを見つめる彼の口元が、ふっと緩む。
これを、ただ一口飲むだけで。
頭の中の雑音はすべて消え去り、世界は信じられないほど静かになる。
誰にも気を遣わなくていい。
(……楽だ)
その破滅的な思考が、もう自然なものになり始めていた。
◇
「ユリウス」
静寂を破るように、冷ややかな声が響いた。
ユリウスが顔を上げると、そこにはいつの間にか近づいていたリリアーナが立っていた。
「……君だけ?ミレイア嬢と一緒じゃないなんて、珍しいね」
「少し、あなたと話があるわ」
いつもの距離感。いつもの、淡々とした態度。
でも、ユリウスは気づく。
その視線が、いつもより少しだけ鋭いことに。
「最近のあなた、少し無理をしているように見えるわ」
「そう?」
「ええ」
リリアーナは一歩踏み込み、ユリウスの手元の小瓶に視線を落とした。
「……あなたは、何かに頼り始めているのではなくて?」
一瞬だけ、中庭の空気が止まる。
「ははっ」
ユリウスは乾いた笑みを浮かべた。
「僕のことを心配してくれてるの?」
「勘違いしないで。私はただ、貴方の現状を客観的に分析しているだけよ」
「冷たいな。でも、君らしいね」
軽く、いつものように冗談めかして返す。
けれど、ユリウスの胸の奥は、今までにないほど激しくざわついていた。
「ねえ」
ユリウスは抑えきれない衝動のまま、ふと口を開く。
「リリアーナってさ……」
「なにかしら」
「僕のこと、どう思ってる?」
一瞬だけの、痛いほどの沈黙。
リリアーナは微塵も揺らぐことなく、冷徹な目で言い放った。
「……将来、我が国を背負って立つ、非常に有能な貴族よ」
「それだけ?」
「それ以上でも、以下でもないわ」
一分の隙もない、答えだった。
ユリウスはそれ以上言葉を返せず、少しだけ目を細めた。
(そう……そういう答えか)
◇
その日の夜。
自室の暗闇の中で、ユリウスは再び青い薬を口に含んでいた。
豪華な絨毯の上には、いくつかの空になった高級酒の瓶が、無残に転がっている。
部屋の灯りはすべて消され、彼は一人きりだった。
もう、何も考えたくなかった。
もともと、ユリウスが生まれ持った魔力量は、同学年の中でも頭一つ飛び抜けて異常なレベルだった。
普段は完璧な制御で隠しているが、精神的に追い詰められた今、その濃密な魔力が部屋の空気をピリピリと震わせるほどに滲み出てくる。
リリアーナのあの冷たい声音が、頭の中で何度も何度も反響して離れない。
――有能な貴族よ。それ以上でも以下でもない。
(違う……そんなはずがない)
彼女は確かに、僕を見ていた。
“未来の宰相候補”としてではなく。
誰にでも愛想よく笑っている、空っぽな優等生としてでもなく。
ちゃんと、“ユリウス・クラウゼン”を見ていた瞬間があった。
なのに僕は、あの愚かな一言を投げかけてしまった。
――僕のこと、どう思ってる?
その一言で、せっかくの繊細な糸を、自ら断ち切ってしまったのだ。
聡明なリリアーナのことだ、僕の気持ちに、確実に気づいたはずだ。
気づかれた以上、もう今まで通りの距離感ではいられない。
リリアーナとの関係も。ミレイアを交えて笑っていたあの時間も。
あの温かかった、僕にとっての唯一の“居場所みたいなもの”も。
(僕のせいで……)
(僕が踏み越えたせいで、全部、崩れてしまったのか)
胸が激しく締め付けられ、呼吸が急速に浅くなっていく。
視界が歪む。冷や汗が止まらない。
だから。
彼は震える手で、もう一瓶、机の上の青い小瓶を乱暴に手に取った。
静かになりたかった。
何も、何も考えたくなかった。
胸を切り裂くようなこの拒絶の痛みも、惨めな後悔の念も。
全部、綺麗さっぱり消し去ってしまいたかった。
その感情ごとすべてを押し潰すように、彼はもう一度だけ、青い液体を貪るように口へと運ぶのだった。




