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第35話 誰もが惹かれる未来の宰相⑨

(……どうしようかしら)


 私は静まり返った夕暮れの帰り道、手の中の小さな青い小瓶を見つめていた。

 正直、少しだけ躊躇いがあった。


(でも、今のまま、荒んでいくユリウスを放置する方が危険だわ)


 そう判断せざるを得なかった。

 このまま彼が完全に精神を病んで壊れていけば、周囲にも被害が出る。

 だから、これは必要なこと。

 私は自分にそう言い聞かせ、胸の動揺を抑え込んだ。



「えっ、あたしがこれを渡すの!?」


 翌日。

 中庭で小瓶を差し出すと、ミレイアが驚きで目を丸くした。


「正直に言うけれど……最近のユリウスは、私のことを少し特別に見ている気がするの」


「うぅ、それはあたしも薄々ちょっとだけ思ってたかも……」


「だから、私から直接労わるようなことをしたら、さらに好感度が上がりそうで危険でしょう?」


「た、確かに……!」


「だから、ちゃんと説明して手渡してね」


 私はこれ以上ないほどに、念を押し、釘を刺した。


「おっけーおっけー!任せといて!」


 軽い。相変わらず返事だけは死ぬほど軽い。

 嫌な予感しか、しなかった。



「ユリウス!」


 お昼休み。

 ミレイアが軽い調子で廊下のユリウスに駆け寄っていった。


「はい、これあげるー!」


「ん?」


「クラスのクラウスくんっていう薬学の天才がさ、眠れない時にめっちゃ効く特製の薬をくれたの!」


 遠くの物陰からその様子を見ていた私は、思わず片手で強く額を押さえた。


(……説明が、雑すぎるのよ!!)


「最近ずっと疲れてそうだったから!これ飲んでゆっくり寝てね!あ、飲み過ぎ注意だよ!」


「へぇ……?」


 ユリウスは白い指先で、淡い青色の小瓶を受け取る。

そして、彼は少しだけ視線を彷徨わせたあと、ミレイアの背後――遠くの物陰から冷や汗を流してこちらを凝視している私の存在に、すぐに気が付いた。


「……これを、君が僕のために心配して、用意してくれたの?」


「え?」


 ミレイアがきょとんとして首を傾げる。


「いや、あたしっていうか――」


「……」


 いや、バレバレ。

 一体何のために、あなたに頼んだと思ってるの。

 私はもう手遅れだと悟り、諦めて二人の前に姿を現した。


 すると。

 ユリウスが、ふっと小さく、今日一番の笑みを漏らした。

 その唇の笑みは――最近彼が見せていたどの笑顔よりも、優しく、柔らかいものだった。



 その日の夜。

 ユリウスは一人、ベッドの上に腰掛けていた。

 手の中には、昼間に受け取った青い小瓶。


 彼は躊躇うことなく、その液体を静かに口に含んだ。


 ユリウスもこの薬の依存性を多少は認識している。

 でも、それ以上にリリアーナがくれた薬だということが彼の中では大きかった。


 ――驚くほど、精神が楽だった。


 いつも頭の奥でうるさく鳴り響いていた他人の雑音や、焦燥感が、嘘のように静かになっていく。

 完璧なセリフも、誰かを喜ばせるための偽りの笑顔も、何も考えずに済む。


「……これなら、眠れるな」


 薄暗い寝室で、彼はぽつりと呟いた。

 こんな風に、他人の好意に縋ることもなく、自然な眠気を感じたのは、一体いつ以来だろうか。


 そして、意識が深い闇へと落ちていく、その刹那。

 彼の脳裏に、昼間に物陰から自分を心配そうに見つめていた、あの美しい令嬢の姿が浮かび上がる。


(……あぁ。リリアーナは)


(僕をちゃんと見てくれているんだね)


 薬がもたらす穏やかな眠気の中で。

 その感情だけが、静かに彼の胸へ沈んでいく。

 まるで、二度と剥がれない呪いみたいに。


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