第35話 誰もが惹かれる未来の宰相⑨
(……どうしようかしら)
私は静まり返った夕暮れの帰り道、手の中の小さな青い小瓶を見つめていた。
正直、少しだけ躊躇いがあった。
(でも、今のまま、荒んでいくユリウスを放置する方が危険だわ)
そう判断せざるを得なかった。
このまま彼が完全に精神を病んで壊れていけば、周囲にも被害が出る。
だから、これは必要なこと。
私は自分にそう言い聞かせ、胸の動揺を抑え込んだ。
◇
「えっ、あたしがこれを渡すの!?」
翌日。
中庭で小瓶を差し出すと、ミレイアが驚きで目を丸くした。
「正直に言うけれど……最近のユリウスは、私のことを少し特別に見ている気がするの」
「うぅ、それはあたしも薄々ちょっとだけ思ってたかも……」
「だから、私から直接労わるようなことをしたら、さらに好感度が上がりそうで危険でしょう?」
「た、確かに……!」
「だから、ちゃんと説明して手渡してね」
私はこれ以上ないほどに、念を押し、釘を刺した。
「おっけーおっけー!任せといて!」
軽い。相変わらず返事だけは死ぬほど軽い。
嫌な予感しか、しなかった。
◇
「ユリウス!」
お昼休み。
ミレイアが軽い調子で廊下のユリウスに駆け寄っていった。
「はい、これあげるー!」
「ん?」
「クラスのクラウスくんっていう薬学の天才がさ、眠れない時にめっちゃ効く特製の薬をくれたの!」
遠くの物陰からその様子を見ていた私は、思わず片手で強く額を押さえた。
(……説明が、雑すぎるのよ!!)
「最近ずっと疲れてそうだったから!これ飲んでゆっくり寝てね!あ、飲み過ぎ注意だよ!」
「へぇ……?」
ユリウスは白い指先で、淡い青色の小瓶を受け取る。
そして、彼は少しだけ視線を彷徨わせたあと、ミレイアの背後――遠くの物陰から冷や汗を流してこちらを凝視している私の存在に、すぐに気が付いた。
「……これを、君が僕のために心配して、用意してくれたの?」
「え?」
ミレイアがきょとんとして首を傾げる。
「いや、あたしっていうか――」
「……」
いや、バレバレ。
一体何のために、あなたに頼んだと思ってるの。
私はもう手遅れだと悟り、諦めて二人の前に姿を現した。
すると。
ユリウスが、ふっと小さく、今日一番の笑みを漏らした。
その唇の笑みは――最近彼が見せていたどの笑顔よりも、優しく、柔らかいものだった。
◇
その日の夜。
ユリウスは一人、ベッドの上に腰掛けていた。
手の中には、昼間に受け取った青い小瓶。
彼は躊躇うことなく、その液体を静かに口に含んだ。
ユリウスもこの薬の依存性を多少は認識している。
でも、それ以上にリリアーナがくれた薬だということが彼の中では大きかった。
――驚くほど、精神が楽だった。
いつも頭の奥でうるさく鳴り響いていた他人の雑音や、焦燥感が、嘘のように静かになっていく。
完璧なセリフも、誰かを喜ばせるための偽りの笑顔も、何も考えずに済む。
「……これなら、眠れるな」
薄暗い寝室で、彼はぽつりと呟いた。
こんな風に、他人の好意に縋ることもなく、自然な眠気を感じたのは、一体いつ以来だろうか。
そして、意識が深い闇へと落ちていく、その刹那。
彼の脳裏に、昼間に物陰から自分を心配そうに見つめていた、あの美しい令嬢の姿が浮かび上がる。
(……あぁ。リリアーナは)
(僕をちゃんと見てくれているんだね)
薬がもたらす穏やかな眠気の中で。
その感情だけが、静かに彼の胸へ沈んでいく。
まるで、二度と剥がれない呪いみたいに。




