第3話 健気で努力家な弟②
「……さて」
私は机の上に広げた紙を見下ろしていた。
そこには、エドガー付きメイドの個人情報がまとめられている。
名前、年齢、経歴、勤務年数。
「めちゃくちゃ優秀じゃない……」
思わず呟きが漏れる。
長年アルヴェルト家に仕え、一度も問題を起こしたことがない。
主人からの信頼も、同僚からの評価も極めて高い。
「そりゃ、私の手紙も止められるわよね」
納得である。むしろ当然だ。
これまでのリリアーナの行いを考えれば、エドガーの身の安全を守るのはメイドとして正解でしかない。
「……でも、困るのよね」
私は頬杖をついた。
このままだと何も進まないのだ。手紙は届かず、直接話す機会も奪われている。
「じゃあ、どうするか」
少し考える。
「排除……は、ダメね」
即却下だ。
露骨すぎるし、何より印象が悪すぎる。
「じゃあ、自然に担当を外れてもらう?」
さらに考える。
……あ。
「昇格させればいいじゃない!」
栄転だ。
本人にとってもプラスになるし、周囲への角も立たない。
アルヴェルト家には現在、女主人がいない。
私の母はすでに亡くなっており、父も後妻を迎えなかった。
そのため、使用人の配置や教育は、お父様と古参の家臣たちによって管理されている。
――つまり。
私のような直系の令嬢の発言も、決して軽いものではないのだ。
(お父様を説得すれば……通せるはず!)
◇
「リリアーナ様、お呼びでしょうか」
扉の前で一礼するメイド。エドガー付きの女性だ。
年齢は三十代前半ほどだろうか。黒い制服にはピシッとアイロンが当たり、後ろで束ねた栗色の髪は一本の乱れもない。
無駄のない所作。
落ち着いた声音。
「ええ。少しよろしいかしら」
「はい」
短い返答。
隙がない。こちらを警戒しているのが、肌に刺さるほど伝わってくる。
「あなた、長くアルヴェルト家に仕えているのでしょう?」
「はい。幼少の頃より」
「そう」
私は深く頷いた。
「その働きぶりは、私も耳にしていますわ」
実際、彼女の評価は高い。そのことを褒めれば少しは場が和むかと思ったのだが。
メイドの視線がわずかに揺れた。
「……恐れ入ります」
「そこで」
私はにこりと、最大限の愛想を込めて微笑んだ。
「あなたに、より重要なお役目をお願いしたいの」
「……と、申しますと」
「本邸での業務に移っていただきたいのです」
エドガー個人の付き人ではなく、家全体を支える側へ。
明らかな昇格人事だ。
「あなたの能力であれば、より大きな役割を担えるでしょう?」
「……申し訳ございません」
だが。
「そのお話、お受けすることはできません」
即答だった。
「私はエドガー様付きとして、職務を全うすることを望んでおります」
「他の任に移るつもりはございません」
迷いのない声。……強い。
(完全に拒否されたわね)
「……そう」
私はゆっくりと言葉を選ぶ。
「けれど、これは“家”としての判断でもありますの」
少しだけ、声に重みを乗せる。
「あなた個人の希望だけで決められることではありませんわ」
途端、部屋の空気が張り詰めた。
「……それでも」
メイドは一歩も引かない。
「私はこの場を離れるわけには参りません」
「エドガー様には、私が必要です」
「……」
その言葉に、私はほんのわずか目を細めた。
「……それは」
静かに、諭すように言う。
「アルヴェルト家の判断を否定する発言と受け取ってもよろしいかしら?」
「――っ」
メイドの顔色が変わる。
今の発言が、雇用主に対する重大な不敬にあたると理解したらしい。
「い、いえ……そのような意図では……」
「でしたら」
私は再びにっこりと微笑んだ。
「命令に従っていただけますわね?」
――本当は。
ここまでやる必要はなかったのかもしれない。
ただ配置を変えたいだけなら、もっと穏便な方法もあったはずだ。
けれど私は、あえて強く出た。
お父様にはすでに話を通してある。
それも、少し無理をして――正直に言えば、かなりゴリ押ししてしまったのだ。
私としても、後には引けない状況だった。
(ここで拒否すればどうなるか、くらいは……わかるはずよね)
「……」
わずかな沈黙。
そして。
「……承知、いたしかねます」
絞り出すような声だった。
メイドの瞳には、恐怖ではなく――確かな「覚悟」が宿っていた。
完全なる拒絶。
「……そう」
私は静かに頷く。
「残念、ね」
◇
「――で、どうしてこうなるの?」
数日後。
私は届けられた報告書を見下ろして、呆然としていた。
「"解雇"って何?」
そこには、はっきりと書かれている。
――職務命令違反および不敬行為による、即日解雇。
「いやいやいや」
思わず独り言が出る。
「そんな話だったかしら?」
昇格の話だったはずだ。
確かに断られはしたけれど。
少なくとも、私の中では栄転の提案だった。
「……」
紙を見つめる。
冷たい文章。
あまりにも事務的な、非情な処分。
「……これ、だいぶまずくない?」
お父様に無理を言って通してもらった話だ。
それを真正面から、しかも令嬢である私の面前で拒絶した。
となれば。
「……そりゃ、家の体面としてこうなるのか」
納得は、できる。できてしまう。
私の「命令」という形を取った以上、拒否は主人への反逆と見なされたのだ。
「……」
一瞬だけ沈黙し、私は首を振った。
「まあ」
視線を上げる。
「これで物理的な障害はなくなったわ。手紙も届くはず」
無理やり思考を切り替える。
「さあ、次に進みましょう」




