第10話 健気で努力家な弟⑨
「――二人とも、そこに」
父の声が冷たく落ちる。
書斎に呼び出されたのは、レイナとエドガーだった。
私もまた、この家の当事者としてその場への立ち会いを許されていた。
机の上には、もはや言い逃れのできない証拠書類が積まれている。
「説明は不要だ」
父は最初から、情状酌量の余地など残していない。
「横領、帳簿改ざん、資金流用、そして業務偽装。……これらすべて、お前が主導したことで相違ないな、レイナ」
レイナは静かに目を伏せたあと、ふっと笑った。
その笑みは、怒りでも恐れでもない。まるで、いつか来るはずだった「正解」をようやく告げられたかのような、奇妙な穏やかさを孕んでいた。
「……見つかってしまったのね」
落ち着いた声だった。だが、そこに反省の色はない。
「でもね、公爵様。これは悪いことではないのよ。……全部、エドガーのためだったのですから」
その言葉に、書斎の空気がわずかに揺れる。
「この家の財務も、人の配置も、教育の仕組みも。全部、この子が困らないように私が整えてあげただけ」
レイナの視線がエドガーに向く。その眼差しはやわらかく、しかし異様なほどに執着的だった。
「この子が、ただそこに座っているだけで『完璧な後継者』でいられるように。私がすべてを準備したのよ」
エドガーは、荒い呼吸を繰り返しながら立ち尽くしている。
「……母上」
声は震えていた。
レイナは、幼子をあやすようににこりと微笑む。
「愛情よ、エドガー。この子は、文字をそのままでは扱いづらい『欠陥』がある子だから。私が代わりに環境を整えてあげただけなの」
父の声が、一際低く響く。
「利益の流出が確認されている。それでも愛情だと言い張るのか」
「もちろんですわ」
レイナは即答した。そこに一切の迷いはない。
「結果的に、この家は滞りなく回っていたでしょう? エドガーも評価されていた。何が問題なのですか?」
(この人、本気でそう思ってるんだ……)
私は背筋に寒いものが走るのを感じた。
レイナの視線が再びエドガーへ向く。
「あなたも分かっていたわよね? 私がいなければ、あなたはこの場所に立ってなどいられなかった。違う?」
沈黙。
エドガーの喉が小さく動く。
「……僕はただ、この家の後継者になりたかっただけだ。そうすれば、父上にも、あなたにも……」
エドガーの言葉を、レイナは嬉しそうに拾い上げた。
「ほら。ちゃんと分かっているじゃない。だから私は、あなたを支えたのよ」
その一言で、この屋敷を蝕んでいた歪みの構造がはっきりと見えた。
レイナの言葉が、エドガーの逃げ道を塞ぐ。彼もまた、母の不正を薄々察しながら、その恩恵を享受し続けた"共犯者"としての側面を持っていたのだ。
父が静かに告げる。
「結論を出す。レイナ・アルヴェルト。横領および資産毀損により、処罰対象とする」
衛兵が動き、彼女の腕を掴む。
「待って。私は間違っていないわ。この子を完成させるために、必要だっただけ……!」
レイナの声は、連行される間際まで穏やかさを失わなかった。
「あなたは私の作品よ、エドガー。成功するための、完璧な後継者。……分かっているでしょう? あなたは完成形なのよ」
扉へ向かいながら、最後に振り返った彼女の瞳は、最後まで我が子を一個の人間ではなく"愛でるべき成果物"として見ていた。
声が途切れ、扉が閉まる。
静寂が落ちた書斎で、エドガーは魂が抜けたような顔で立ち尽くしていた。
「……僕は」
ぽつりと、掠れた声が漏れる。
「……僕はただ、母上に、必要とされていたかっただけなんだ」
その言葉は、もはや誰にも届かない。父の冷徹な視線は、すでに"壊れた人形"を見るような冷たさに変わっていた。




