第99話 王子の席から逃げない
控え室の扉が閉まった。
机の上には、上等な紙が一枚置かれていた。
『高位家親善案件 例外承認案』
ルシアン殿下は、表題に目を落とした。
紙の端には王家側補佐の印。添えられた控えには、高位家寄りの使者の名もある。二人は深く礼をしたまま、息を合わせたように顔を伏せていた。
「殿下にご判断を仰ぎたい件がございます」
補佐は、慎重に声を整えた。
「今回の高位家親善案件は、王家の体面にも関わります。通常手順で確認を重ねますと、関係各家の名が不用意に出るおそれがございます。橋渡し確認書の趣旨は尊重いたしますが、この件だけは、殿下のご判断で例外扱いをお認めいただければと」
ルシアン殿下は、中央の一文を見た。
『王家判断により、通常手順の一部を省略可能とする』
その横に、昨日の写しが置かれている。
安い紙。狭い余白。赤く囲まれた小さな家名。
上等な承認案の白さと、赤く汚れた写しが、同じ机の上で並んでいた。
「地方側には、後ほど丁寧に説明いたします」
補佐が付け加える。
ルシアン殿下の指が、写しの端を押さえた。
「後ほど、か」
低い声に、補佐の喉が小さく動いた。
「はい。混乱を避けるためにも、先に大枠を整えたうえで」
「先に整えるのは、誰の側だ」
補佐が言葉を止める。
ルシアン殿下は、顔を上げた。
「この紙には、王家の体面と高位家の秩序が大きく書かれている」
彼は、隣の写しを指で叩いた。
「こちらには、小さな家名が赤で囲まれている」
控え室の空気が固くなる。
高位家寄りの使者が、膝の上で手袋を握った。
補佐は、それでも食い下がった。
「殿下のご判断であれば、関係各家も納得いたしましょう。王家が責任を持って調整する形でございます」
「責任を持つなら、責任欄から逃げるな」
ルシアン殿下は、文案の一行に指を置いた。
「省略可能、か」
爪の下で、紙がわずかに沈む。
補佐は一拍置き、さらに声を低めた。
「高いお立場には、高いお立場なりの例外が必要です」
ルシアン殿下は、補佐を見た。
「高い家ほど例外を持つなら、この橋は最初から壊れている」
「殿下」
「王家の名で橋を作らせておいて、王家の名で最初に外れるわけにはいかない」
高位家寄りの使者が口を開いた。
「しかし、通常手順で揉めた場合、かえって各家の体面に傷が」
「体面を守りたいなら、記録に耐える判断をしろ」
ルシアン殿下の声は冷えていた。
「手順を省くなら、省いた不備の責任を署名欄で引き受けろ」
補佐の顔から血の気が引いた。
「ですが、殿下のご判断としていただければ」
「私の判断を求めたのだろう」
ルシアン殿下は立ち上がった。
椅子の脚が床を短く擦る。
補佐が半歩動いたが、それより早く、ルシアン殿下の手が羽ペンを掴んだ。
ペン先が、表題へ落ちる。
『例外承認案』
黒い線が走った。
一度。
二度。
紙の繊維が毛羽立ち、黒インクが文字の縁へ滲む。
続いて、中央の一文。
『通常手順の一部を省略可能』
省略可能。
その四文字の上に、重い黒線が引かれた。
控え室の誰も息をしなかった。
ルシアン殿下は、余白へ短く書き込んだ。
王家が関わる案件ほど、通常手順を厳格に適用する。
王家承認印には、判断者名、根拠、影響先を添える。
補佐が、掠れた声を出す。
「殿下。これでは、例外承認ではございません」
ルシアン殿下は署名欄へ進んだ。
羽ペンの先が、紙を強く削る。
名を書き終えると、彼は塗り潰した『省略可能』の上へ、さらに一本、黒線を重ねた。
「承認しない」
黒インクの生臭い匂いが、狭い控え室に満ちた。




