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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。  作者: 星渡リン
第4部 第3章 その解釈が役を決める

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第98話 その事情は誰を踏むの

 イレーネが置いた書類は、前日の要領案より薄かった。


 紙も安い。余白も少ない。表紙の文字も小さい。


『別枠処理に伴う負担移動表』


 セレフィーナが表紙をめくる前に、ルシアン殿下の視線がその題へ落ちた。


「昨日の別枠案を、現場の作業に戻しました」


 イレーネの指先は、紙の端を白く押さえていた。


 めくられた一枚目には、王都側の言葉が並んでいる。


 家代表確認。

 費用一括扱い。

 非公開調整。


 その右側に、イレーネの字で小さな家名と費目がびっしり詰め込まれていた。


「家代表確認で済ませた本人確認は、当日、現場係が口で埋めます。本人が動線を知らない。控室を知らない。役割説明を受けていない。その場で止めれば進行遅延、流せば案内不備です」


 イレーネは、次の行へ指を滑らせる。


「費用一括扱いは、清算の前に請求書が来ます。馬車待機、控室追加、席札差替、従者の延長。場を止められない家が先に払います」


 さらに下。


「非公開調整は、当日になって伝達者が消えます。聞いていない。誰が承認した。誰から伝わった。答えるのは、近くにいる実務係です」


 紙をめくる音だけが、部屋に残った。


 イレーネは顔を上げた。


「高位家の事情は、現場に届く時には“誰かが穴を埋めておいてください”になります」


 負担先の欄を、爪先で軽く叩く。


「その誰かは、たいてい断りにくい小家です」


 ノアが、負担先欄を覗き込んだ。


「主語を『お上の事情』にした瞬間、負担は下へ降ります。名前を書けない書類なら、不祥事の証拠としては上出来ですね」


 王都側調整役の口元が硬くなった。


 ミレイアは、家代表確認の欄から目を離さなかった。


「家代表が了承した、という文だけでは、本人の声が入りません」


 声は低い。


「本人が困っていても、“家としては受けています”と書かれたら、断る欄が消えます」


 フィオナが、膝の上で組んだ指を強く握った。


「外側で家が頷いた後、本人の返事は追認になります」


 それだけだった。


 ミレイアの目が、さらに冷える。


「追認を、本人意思と呼ばないでください」


 セレフィーナは、前日の『高位家案件に関する円滑処理要領』を開いた。


 高位家の体面。

 社交上の秩序。

 別枠処理。


 上等な紙の上では、どの文字も澄ましている。


 その横に、イレーネの負担移動表を重ねると、細い家名がいくつも透けて見えた。


 ルシアン殿下の指が、一つの行で止まる。


『王家承認印をもって、関係各家への事前周知済み扱いとする』


 その下には、小さな文字が並んでいた。


 地方小家三家。

 当日案内係。

 控室担当。

 費用立替予定家。


 ルシアン殿下の手元で、紙の端が少し歪んだ。


「王家の承認印が、これを押し流す側に使われるのか」


 セレフィーナは答えない。


 ルシアン殿下は、しばらくその行を見ていた。


 扉近くに控えていた王都側調整役が、慎重に口を開く。


「しかし、高位家には高位家の事情がございます。名が出るだけで動く者も多く、混乱を避ける必要が」


「事情があるのは、高位家だけではありません」


 イレーネの声が、調整役の言葉を切った。


「支払日を待てない家にも事情があります。書記が一人しかいない家にも事情があります。家代表の了承を断れない本人にも事情があります」


 負担移動表の端が、イレーネの指の下でわずかに波打つ。


「高位家の事情を書くなら、踏まれる側の事情も同じ紙へ書いてください」


 沈黙が落ちた。


 セレフィーナは赤ペンを取った。


 要領案の余白に、まっすぐ書き込む。


『事情適用時負担先欄』


 がり、と紙が鳴った。


「高位家の事情は、書いて構いません」


 赤い文字の下に、さらに枠を引く。


「その事情で誰の時間、費用、声が削られるのかも、同じ欄に書いてください」


 王都側調整役が、わずかに身を引いた。


 セレフィーナは続けて、王家承認印の行へ赤を入れる。


 ルシアン殿下が、そこで顔を上げた。


「王家承認印を使うなら、判断者名と根拠を添える」


 低い声だった。


「私の名で押すなら、私の責任欄も作れ」


 部屋の空気が止まった。


 セレフィーナの赤ペンが、迷わずその言葉を受け取る。


『王家承認印使用時 判断者名・根拠・責任欄』


 紙の繊維が、赤いインクを吸い込む。


 ミレイアが、家代表確認の横へ小さな印を付けた。


「本人の原文欄も、隣に」


「入れるわ」


 セレフィーナは、家代表確認の行にも枠を作った。


 家の返事の隣に、本人の言葉を置くための狭い枠。


 フィオナが、その枠を見て、ほんの少しだけ息を吐いた。


 イレーネの負担移動表は、赤字で姿を変えていく。


 上等な紙に書かれた高位家の事情。


 そのすぐ下に、細い家名が並ぶ。


 セレフィーナは、その小さな家名をひとつずつ赤で囲んだ。


 枠線は細い。


 けれど、囲まれた名前はもう余白の端に隠れない。


 ルシアン殿下は、王家承認印の行と、その下の小さな家名を見つめたまま、指を離さなかった。

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