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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。  作者: 星渡リン
第4部 第4章 高い家ほど例外を持つ

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第97話 体面のための別枠

 赤字だらけの長机に、新しい資料が置かれた。


 白い表紙だけが、妙に清潔だった。


『高位家案件に関する円滑処理要領』


 円滑。


 その二文字を見た瞬間、セレフィーナの指の中で赤ペンが止まった。


 進行役が資料を配る。紙は上等で、角もきれいに揃っている。余白の取り方まで、いかにも穏当な提案に見えるよう整えられていた。


「橋渡し確認書の趣旨には、深く賛同しております」


 高位家代表の年配の男が、ゆっくりと頭を下げた。


 声は柔らかい。

 笑みも礼儀も崩れない。

 だから、余計に冷たかった。


「ただ、高位家同士の親善案件では、通常手順をそのまま適用すると、かえって関係各家の体面を損ねる場合がございます」


 資料が一枚めくられる。


「本人確認や費用調整を公開の場へ出しますと、不要な憶測を招くこともございましょう。王都側で先に調整し、家代表を通じて確認する方が、混乱を避けられるかと」


 セレフィーナは、紙面を追った。


『高位家案件においては、関係各家の体面および社交上の秩序を保つため、必要に応じて別枠処理を認める』


『本人意思確認については、家代表者への事前確認をもって補助的確認とすることができる』


『費用責任および人手負担については、案件成立後、関係者間で別途協議する』


 別枠処理。

 家代表者への確認。

 案件成立後。

 後日協議。


 赤ペンの先が、紙に触れる直前で止まる。


 ノアが、資料の三行を指で押さえた。


「主語を『各家の体面』にすり替えた瞬間、この書類は私的な裏約束に化けますよ」


 高位家代表の眉が、わずかに動いた。


 ノアは構わず続ける。


「本人確認を家代表へ寄せる。費用責任を成立後へ送る。人手負担を関係者間調整へ逃がす。帳簿の外に別枠を作らせるなど、監査上は不祥事の温床でしかありません」


「ノア様。別枠というのは、制度を軽んじるためのものではございません」


 代表は穏やかに返した。


「むしろ、制度の趣旨を尊重するために、案件に応じた丁寧な処理が必要というだけです」


「丁寧、ですか」


 ノアの目が細くなる。


「責任者名を遠ざける紙ほど、王都では丁寧に綴じられるようですね」


 進行補佐が、喉を鳴らす。


 高位家代表は、笑みを薄く保ったまま、卓上の資料へ手を添えた。


「高位家案件には、高位家案件なりの秩序がございます」


 審議室が、すっと静まった。


「すべてを同じ手順で扱うことは、かえって礼を欠く場合もございましょう」


 何人かが、小さく頷いた。


 セレフィーナは、その頷きの位置を目で拾った。

 高位家寄りの席。王都側の調整役。神殿側の補佐。


 赤ペンはまだ動かさない。


 ここで線を引けば、相手は「誤解です」と逃げる。

 この言葉が、どの欄を薄くし、誰の欄を消すのか。

 その形を、もう少し紙の上に出させる。


 ルシアン殿下は、王都側の席で資料を見ていた。


 『家代表者への事前確認』の行で、指が止まる。


 続いて、『費用責任および人手負担については、案件成立後』の行で、紙の端がわずかに沈んだ。


 彼は顔を上げない。


 けれど、資料を閉じもしなかった。


 そのまま進行役へ目だけを向ける。


「この案は、原文のまま議事録へ添付を」


 低い声だった。


 高位家代表の笑みが、一拍だけ遅れた。


 進行役が慌てて羽ペンを持ち直す。


「原文のまま、でございますか」


「ええ」


 ルシアン殿下は、資料から目を離さない。


「誰が、どの文言を提案したのか。後で確認できる形に」


 それだけ言って、彼は黙った。


 逃げ道の扉に、まず札が掛かった。


 高位家代表は、すぐに表情を整える。


「もちろんでございます。ご検討いただくための試案ですので」


 イレーネが、資料の費用欄を見つめたまま口を開いた。


「後日協議の費用は、たいてい誰かが先に立て替えています」


 声は小さい。


 だが、審議卓の上をまっすぐ滑った。


「必要があれば、後日清算されるでしょう」


 代表は、変わらぬ声で言う。


「後日まで待てる家ばかりではありません」


 イレーネは、資料の該当行を指で押さえた。


「招待状の増刷、席札の作り直し、馬車待機、控室の人員。成立してから協議すると書かれた時点で、先に動いた家の帳簿だけが傷みます」


 代表の指が、肘掛けを軽く叩いた。


 ミレイアは、『家代表者への事前確認』の行を見ていた。


「家の返事が入った後では、本人はもう断りにくいです」


「家代表は、ご本人に最も近い立場でもあります」


「近いから、逆らいにくい場合もあります」


 ミレイアは、顔を上げた。


「家が先に頷けば、本人の返事は確認ではなく追認になります」


 神殿側の使者が、目を伏せる。


 高位家代表は、今度もすぐに微笑を戻した。


「皆様のご懸念は理解いたします。ただ、高位家の案件では、名が出るだけで周囲が騒ぎます。ご本人を不用意に表へ出さないことも、配慮でございましょう」


 配慮。


 その言葉が落ちた瞬間、ミレイアの指が紙面の端を握った。


 セレフィーナは、赤ペンをほんの少し持ち上げる。


「進行役」


 声をかけると、羽ペンの音が止まった。


「この資料は、提出者名、作成者名、共有予定先を付けて保管してください」


 代表の目が、わずかに細くなる。


 セレフィーナは続けた。


「それから、次回までに別紙を求めます。家代表確認で代替される本人確認の範囲。後日協議に回される費用の項目。人手負担が発生する家名。すべて、空欄なしで」


 審議室の奥で、誰かが息を飲んだ。


「まだ決める段階ではないはずですが」


 代表が穏やかに言う。


「決める前に、何を薄くする案なのかを見ます」


 セレフィーナは資料を閉じなかった。


 赤ペンの先を、『別枠処理』のすぐ横へ置く。


「体面という言葉で隠れる欄を、先に出してください」


 進行役の手が震えながら動く。


「では、本件は継続審議とし、提出案については原文添付。追加資料として、本人確認代替範囲、費用項目、人手負担先、共有予定先の提出を求めるものといたします」


 高位家代表は、ゆっくりと頭を下げた。


「承知いたしました。ご検討いただければ幸いです」


 笑みは残っていた。


 だが、退出の前に、代表の視線が一度だけ資料へ落ちる。


 原文添付。

 提出者名。

 作成者名。

 共有予定先。

 空欄なし。


 きれいに磨いたはずの紙へ、煤のような記録欄が付き始めている。


 扉が閉まった。


 審議室には、資料だけが残った。


 ルシアン殿下はまだ席を立たない。

 イレーネは費用欄に小さな印を付ける。

 ミレイアは家代表確認の行へ薄い線を引く。

 ノアは提出者名欄の余白を見ている。


 セレフィーナは、『別枠処理』の横に赤ペンの先を立てた。


 紙が、ぷつりと小さく鳴る。


 線ではない。


 穴にもならない。


 けれど、上等な紙の表面に赤い点が穿たれた。


 長机の周囲に、重い沈黙が落ちる。


 赤いインクは、丸く滲んだまま乾かなかった。

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― 新着の感想 ―
こんなのがまかり通っていたとか、この国大丈夫か?
費用の協議が後回しなんだったら、まずは全額支給して後で余剰分を返金で良いよなぁ
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