第97話 体面のための別枠
赤字だらけの長机に、新しい資料が置かれた。
白い表紙だけが、妙に清潔だった。
『高位家案件に関する円滑処理要領』
円滑。
その二文字を見た瞬間、セレフィーナの指の中で赤ペンが止まった。
進行役が資料を配る。紙は上等で、角もきれいに揃っている。余白の取り方まで、いかにも穏当な提案に見えるよう整えられていた。
「橋渡し確認書の趣旨には、深く賛同しております」
高位家代表の年配の男が、ゆっくりと頭を下げた。
声は柔らかい。
笑みも礼儀も崩れない。
だから、余計に冷たかった。
「ただ、高位家同士の親善案件では、通常手順をそのまま適用すると、かえって関係各家の体面を損ねる場合がございます」
資料が一枚めくられる。
「本人確認や費用調整を公開の場へ出しますと、不要な憶測を招くこともございましょう。王都側で先に調整し、家代表を通じて確認する方が、混乱を避けられるかと」
セレフィーナは、紙面を追った。
『高位家案件においては、関係各家の体面および社交上の秩序を保つため、必要に応じて別枠処理を認める』
『本人意思確認については、家代表者への事前確認をもって補助的確認とすることができる』
『費用責任および人手負担については、案件成立後、関係者間で別途協議する』
別枠処理。
家代表者への確認。
案件成立後。
後日協議。
赤ペンの先が、紙に触れる直前で止まる。
ノアが、資料の三行を指で押さえた。
「主語を『各家の体面』にすり替えた瞬間、この書類は私的な裏約束に化けますよ」
高位家代表の眉が、わずかに動いた。
ノアは構わず続ける。
「本人確認を家代表へ寄せる。費用責任を成立後へ送る。人手負担を関係者間調整へ逃がす。帳簿の外に別枠を作らせるなど、監査上は不祥事の温床でしかありません」
「ノア様。別枠というのは、制度を軽んじるためのものではございません」
代表は穏やかに返した。
「むしろ、制度の趣旨を尊重するために、案件に応じた丁寧な処理が必要というだけです」
「丁寧、ですか」
ノアの目が細くなる。
「責任者名を遠ざける紙ほど、王都では丁寧に綴じられるようですね」
進行補佐が、喉を鳴らす。
高位家代表は、笑みを薄く保ったまま、卓上の資料へ手を添えた。
「高位家案件には、高位家案件なりの秩序がございます」
審議室が、すっと静まった。
「すべてを同じ手順で扱うことは、かえって礼を欠く場合もございましょう」
何人かが、小さく頷いた。
セレフィーナは、その頷きの位置を目で拾った。
高位家寄りの席。王都側の調整役。神殿側の補佐。
赤ペンはまだ動かさない。
ここで線を引けば、相手は「誤解です」と逃げる。
この言葉が、どの欄を薄くし、誰の欄を消すのか。
その形を、もう少し紙の上に出させる。
ルシアン殿下は、王都側の席で資料を見ていた。
『家代表者への事前確認』の行で、指が止まる。
続いて、『費用責任および人手負担については、案件成立後』の行で、紙の端がわずかに沈んだ。
彼は顔を上げない。
けれど、資料を閉じもしなかった。
そのまま進行役へ目だけを向ける。
「この案は、原文のまま議事録へ添付を」
低い声だった。
高位家代表の笑みが、一拍だけ遅れた。
進行役が慌てて羽ペンを持ち直す。
「原文のまま、でございますか」
「ええ」
ルシアン殿下は、資料から目を離さない。
「誰が、どの文言を提案したのか。後で確認できる形に」
それだけ言って、彼は黙った。
逃げ道の扉に、まず札が掛かった。
高位家代表は、すぐに表情を整える。
「もちろんでございます。ご検討いただくための試案ですので」
イレーネが、資料の費用欄を見つめたまま口を開いた。
「後日協議の費用は、たいてい誰かが先に立て替えています」
声は小さい。
だが、審議卓の上をまっすぐ滑った。
「必要があれば、後日清算されるでしょう」
代表は、変わらぬ声で言う。
「後日まで待てる家ばかりではありません」
イレーネは、資料の該当行を指で押さえた。
「招待状の増刷、席札の作り直し、馬車待機、控室の人員。成立してから協議すると書かれた時点で、先に動いた家の帳簿だけが傷みます」
代表の指が、肘掛けを軽く叩いた。
ミレイアは、『家代表者への事前確認』の行を見ていた。
「家の返事が入った後では、本人はもう断りにくいです」
「家代表は、ご本人に最も近い立場でもあります」
「近いから、逆らいにくい場合もあります」
ミレイアは、顔を上げた。
「家が先に頷けば、本人の返事は確認ではなく追認になります」
神殿側の使者が、目を伏せる。
高位家代表は、今度もすぐに微笑を戻した。
「皆様のご懸念は理解いたします。ただ、高位家の案件では、名が出るだけで周囲が騒ぎます。ご本人を不用意に表へ出さないことも、配慮でございましょう」
配慮。
その言葉が落ちた瞬間、ミレイアの指が紙面の端を握った。
セレフィーナは、赤ペンをほんの少し持ち上げる。
「進行役」
声をかけると、羽ペンの音が止まった。
「この資料は、提出者名、作成者名、共有予定先を付けて保管してください」
代表の目が、わずかに細くなる。
セレフィーナは続けた。
「それから、次回までに別紙を求めます。家代表確認で代替される本人確認の範囲。後日協議に回される費用の項目。人手負担が発生する家名。すべて、空欄なしで」
審議室の奥で、誰かが息を飲んだ。
「まだ決める段階ではないはずですが」
代表が穏やかに言う。
「決める前に、何を薄くする案なのかを見ます」
セレフィーナは資料を閉じなかった。
赤ペンの先を、『別枠処理』のすぐ横へ置く。
「体面という言葉で隠れる欄を、先に出してください」
進行役の手が震えながら動く。
「では、本件は継続審議とし、提出案については原文添付。追加資料として、本人確認代替範囲、費用項目、人手負担先、共有予定先の提出を求めるものといたします」
高位家代表は、ゆっくりと頭を下げた。
「承知いたしました。ご検討いただければ幸いです」
笑みは残っていた。
だが、退出の前に、代表の視線が一度だけ資料へ落ちる。
原文添付。
提出者名。
作成者名。
共有予定先。
空欄なし。
きれいに磨いたはずの紙へ、煤のような記録欄が付き始めている。
扉が閉まった。
審議室には、資料だけが残った。
ルシアン殿下はまだ席を立たない。
イレーネは費用欄に小さな印を付ける。
ミレイアは家代表確認の行へ薄い線を引く。
ノアは提出者名欄の余白を見ている。
セレフィーナは、『別枠処理』の横に赤ペンの先を立てた。
紙が、ぷつりと小さく鳴る。
線ではない。
穴にもならない。
けれど、上等な紙の表面に赤い点が穿たれた。
長机の周囲に、重い沈黙が落ちる。
赤いインクは、丸く滲んだまま乾かなかった。




