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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。【450万PV感謝】  作者: 星渡リン
第3部 第5章 王都の改革では足りなかった

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第79話 橋の上で決めること

 橋板を打つ音が、朝の空気を小さく震わせていた。


 こん、こん、と乾いた音が川面へ落ちる。修繕中の木橋には、まだ新しい板の匂いがあった。座る場所はない。書類を広げる机もない。足元の板は硬く、川から吹く風は容赦なく紙の端をさらおうとする。


 けれど、その不便さが今はよかった。


 ふかふかの椅子に腰を沈めて、温かいお茶を飲みながら作る紙では、また同じことをする。整った顔で、現場を削る書類を作ってしまう。


 セレフィーナは、書き板の上に赤字だらけの王都版様式を広げた。


 ノアが、風にめくれそうな紙を骨張った指で押さえる。


「ずいぶん風通しの良い会議ですね。嘘を書けば、そのまま川へ流されそうです」


「流されるような言葉なら、最初からこの橋を渡さない方がいいわ」


 橋の向こうには、帳場の屋根が見える。

 昨夜、灯りが消えなかった場所だ。


 ルシアンもそちらを見ていた。白い手袋の指先には、昨日ついた黒い汚れがまだ残っている。彼はそれを拭っていない。


 イレーネは、地方側の実務記録を抱えて立っている。

 ミレイアは、フィオナの紹介文控えを胸元に抱えていた。


 セレフィーナは、書き板の上の紙を指で押さえた。


「王都の正しさを、そのまま橋の向こうへ投げれば、地方では重石になる。なら、この橋の上で一度ほどくのよ」


 ルシアンが視線を戻す。


「ほどく?」


「義務なのか、任意なのか。費用は誰が持つのか。権限はどこにあるのか。本人の意思は確認済みなのか。地方へ届く前に、全部分ける」


 風が一度、川面から吹き上がった。

 書類の端が浮く。ルシアンが無言で手を伸ばし、汚れのついた手袋で紙を押さえた。


 黒い跡が、白い余白へうっすら移る。


 セレフィーナは、それを見てから続けた。


「この汚れごと、記録に入れるくらいでちょうどいいわ。綺麗な紙だけで作るから、現場が見えなくなる」


 ノアが、王都側から届いた文面を一枚抜き取った。


「王都の役人が好む言葉があります」


 彼は、紙面の一箇所を指で弾く。


「柔軟に」


 ぴしり、と乾いた音がした。


「これほど便利で、これほど腹立たしい言葉もありません。責任者を隠し、費用を隠し、断る権利まで曖昧にする。王都では耳ざわりのよい調整語でも、地方では“黙って飲め”という命令に化けます」


 ルシアンの眉が動く。


「柔軟に、か」


「禁止する必要はありません」

 ノアはペンを回した。

「使った者に、意味を吐かせればいいだけです。柔軟にと書くなら、誰が責任を持つのか。誰が止める権限を持つのか。どこまでなら拒否できるのか。全部、本人に書かせる」


 セレフィーナは、わずかに口元を緩めた。


「綺麗事に署名欄をつけるのね」


「ええ。綺麗事は、署名欄をつけた瞬間にだいたい醜くなります」


「悪趣味ね」


「お嬢様ほどでは」


「あとで覚えておきなさい」


 ノアは答えず、風で飛んできた木屑を紙の端から払った。

 その横で、ミレイアがフィオナの紹介文控えを抱え直す。


「……“考えます”を、正式な返事として認めてください」


 声は静かだった。

 けれど、橋板を打つ音の間にまっすぐ通った。


「笑顔で即答できる子ほど、考える時間を奪われた瞬間に潰れます。役が決まって、紹介文ができて、周囲が“似合う”と言い始めてからでは、断ること自体が悪いことに見えてしまうんです」


 ミレイアの指が、紹介文の端を押さえる。


「相談しただけで“断りそうな家”と見られるなら、誰も相談できません。考えます、と言える場所を先に置いてください。役割文書より前に」


 ルシアンの手袋の指先が、ゆっくり握り込まれた。

 フィオナが息を逃がしていた前室の光景を、思い出しているのだろう。


「“保留”ではなく、正式な回答として記録する」


 ルシアンが低く言った。


「考えることを、非協力に数えない」


「はい」

 ミレイアが頷く。

「考える時間を奪う方が、ずっと失礼です」


 イレーネが、そこで実務記録を開いた。


 紙には数字が詰まっている。

 夜を越えた帳場の跡だ。人手、時間、差し戻し、添付資料の枚数。隙間なく書かれた文字から、焦げたような疲労が立ち上がってくる。


「書式は削ってください」


 イレーネの声は硬かった。


「守るための書類で現場が止まるなら、守っていません。美しい様式など、現場では何の腹の足しにもなりません」


 橋板を打つ音が止まった。

 職人の一人が、ちらりとこちらを見る。すぐ作業へ戻る。


 イレーネは構わず続けた。


「小家でも回せる最低限の形にしてください。王都の机で美しく見える紙より、夜を越せる紙が必要です。書記が一人でも、食事の前に書ける量にしてください」


 セレフィーナは、その怒りを受け止めた。


 イレーネは正しい。

 書けない紙は、守る紙ではない。

 書ける家だけを選別する、新しい家格差になる。


「必須だけ残すわ」


 セレフィーナは言った。


「本人意思。費用。人手。権限。差止権限。そこは削れない。でも添付資料は減らす。現地で聞き取れるものは、中間担当が記録する。小家に全部作らせない」


「それなら回せます」

 イレーネは即答した。

「少なくとも、三人の夜を潰さずに済みます」


 その言葉に、ルシアンの視線が揺れた。


 昨日の帳場。

 黒く汚れた指先。

 硬くなったパン。


 それらがまだ、彼の中に残っている。


「王家側にも入れる」


 ルシアンが言った。


「王都から地方へ出す依頼は、中間承認を通す。王家、または中央側の責任で、現場への影響を確認する」


 彼は、汚れた手袋で押さえた紙から手を離さない。


「“軽微な追加”という言葉を、もう机の上だけで認めない。誰の食事を冷ますのか。誰の夜を削るのか。どの補修を遅らせるのか。それを書かせる」


 セレフィーナは、彼の手袋についた黒い跡を見た。


 まだ足りない。

 それでも、昨日までのルシアンなら、そこには触れなかった。


「王家の印を、現場を見ない言い訳には使わせない」

 ルシアンは続ける。

「現場確認役を置く。地方側が辞退した場合、それを不利益評価へ使わないことを、王家側記録にも残す」


 セレフィーナは短く言った。


「ようやく、橋のこちら側に足を置きましたね、殿下」


「遅すぎた」


「ええ」


 容赦なく頷く。


 ノアが、紙の端に何かを書きかけて止めた。


「遅すぎた、と本人記録に」


「ノア」


「冗談です。七割ほど」


「増えているわよ」


 ルシアンは怒らなかった。


「残してもいい。遅かったことは事実だ」


 ノアのペンが一瞬だけ止まる。


 セレフィーナも、少しだけルシアンを見た。


 綺麗な反省はいらない。

 けれど、事実から逃げない言葉なら使える。


 セレフィーナは書き板の上に集まった紙を見下ろした。


 このままでは重い。

 また誰かの机に、親切な顔をした紙束が積まれる。


 だから、絞る。


「三本にするわ」


 セレフィーナは言った。


「本人の意思を先に拾うこと。費用と人手を先に見せること。断った家を不利益扱いしないこと」


 イレーネが頷く。


「その三つなら、地方側も意味を掴めます」


「書ける?」


「補助があれば」


「補助は入れる」


 ミレイアが、少しだけ息を吐いた。


「“考えます”も、そこに入りますか」


「入れるわ。本人の意思を先に拾うために必要だもの」


 ルシアンが言う。


「費用と人手の欄には、王都側記入欄を置く。地方に任せない」


「当然ね」


 ノアが、空白の紙を一枚取り出した。


「名前を」


「今決める必要がある?」


「あります。名前のない書類は探せません。探せない書類は、存在しなかったことにされます」


「嫌なことを正しく言うわね」


「得意です」


 セレフィーナは迷わなかった。


「橋渡し確認書。仮名で十分よ」


 ノアがその名を書きつける。


 橋渡し確認書。


 かわいげのある名に見えて、中身はずいぶん可愛くない紙になる。

 その方がいい。


 セレフィーナは、仮案の下へすぐに書き足した。


 三条件未確認の依頼は、地方側へ送付しない。


 イレーネが目を上げる。


「かなり強いですね」


「弱い紙では、また誰かが夜を潰すわ」


 ミレイアがフィオナの紹介文控えを置いた。


「本人意思先行の例として、これを」


 イレーネが実務記録を重ねる。


「負担偏りの実例として、こちらを」


 ノアが王都側の文面を置く。


「曖昧語の検体として、これを」


「検体って言った?」


「はい。丁寧に解剖しましょう」


 最後にルシアンが、王家印の入った旧来の承認控えを置いた。


「王家側の修正対象として、これを」


 橋の上の書き板に、紙が重なっていく。


 まだ制度ではない。

 穴だらけの仮案だ。

 けれど、今まで地方へ直接突き刺さっていた刃を、一度止めるための壁にはなる。


 橋の下を流れる川の音が、やけに近く聞こえた。


 セレフィーナは、鞄の中の白紙へ指を伸ばす。

 もう一枚必要だ。

 この仮案を、今日中に王家側の承認手順へ差し込むための送付状。

 親善行事の運営控えへ添付するための別紙。

 各家へ回す前に、三条件の確認を求める通知。


 名前をつけて終わりではない。

 名前がついたなら、次は動かす。


 セレフィーナはペンを取り直した。


 川風で冷えた指先に、インクの重さが戻る。


「ノア、写しを三通。ルシアン殿下、王家側の承認経路を今日中にください。イレーネ、負担例は数字を丸めないで。ミレイア、フィオナ様の件は本人名を伏せて扱うわ」


 四人が同時に頷く。


 セレフィーナは、新しい紙の最初の行へペンを落とした。


 橋渡し確認書、仮運用申請。


 橋板を打つ音が、また鳴り始める。

 こん、こん、と、今度は少しだけ力強く。

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― 新着の感想 ―
検体。 王政のナーロッパ世界観で、王太子が護衛も連れずに距離感が謎の地方らしきところで、同じく護衛も連れてない侯爵令嬢と会っていて、そこで一泊して、昨日と同じ汚れた手袋しているよりも違和感がすごい。 …
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