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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。【450万PV感謝】  作者: 星渡リン
第3部 第5章 王都の改革では足りなかった

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第78話 王子に見せたい景色

 夜明け前の帳場には、まだ灯りが残っていた。


 油の減ったランプが三つ、黄ばんだ火で山になった紙を照らしている。インクと古い油が混ざった匂いの中に、冷え切った茶の渋さが沈んでいた。机の端には、石のように硬くなったパンが置かれている。


 王都の執務室にはない匂いだった。


 整えられた紙の匂いではない。

 人の夜を削った後に残る匂いだ。


 ルシアンは、入口で足を止めた。


 セレフィーナは何も言わない。


 イレーネが一枚の紙を示した。


「昨夜届いた『確認一点』のために、三人が夜を明かしました」


 王都からの追加照会。

 表題だけ見れば、たいしたことのない確認だった。


「一人は水路、一人は在庫確認を止めました。もう一人は、宿泊名簿の照合へ入る予定でした」

 イレーネの声は淡々としている。

「王都での一点は、ここでは三人の一日です」


 帳場の奥で、若い書記の筆先が震えた。


 眠気で手元が狂ったのだろう。まだ乾いていない文字を擦り、黒い汚れが広がる。


「……申し訳ありません」


 書記が小さく頭を下げる。


 イレーネは責めなかった。

 ただ、別の紙を差し出す。


「こちらへ写し直してください」


 ルシアンの喉が動いた。


 王都なら、不備。

 確認不足。

 再提出。


 そう呼んでいたものが、ここでは眠れなかった人間の指から生まれている。


「丁寧な、仕事だと……?」


 掠れた声が落ちた。


 王都で正しいとされていた手続き。

 自分も疑わずに見てきた整った確認。

 それが目の前の人間を机に縫いつけ、朝食の時間まで奪っている。


 ルシアンは、インクで黒くなった書記の指を見つめた。

 見続けられず、少しだけ視線を外した。


 セレフィーナは歩き出した。


 次に向かったのは、屋敷の裏手にある古い木橋だった。


 来賓が通る正面の道ではない。荷車や使用人が使う、幅の狭い橋だ。板の一枚が浮いている。踏めば、ぎしりと嫌な音を立てた。


「ここは、昨日のうちに補修する予定でした」


 イレーネが言う。


 橋板の端には、応急で打たれた釘が見える。だが中央の傷んだ部分には手が入っていない。


「人手が足りず、明日へ回しました」

「なぜ足りなくなった」


 ルシアンの問いは短い。


「会場の装飾布を増やすことになったからです」

 イレーネは淡々と答えた。

「王都側の見積もりでは、軽微な変更でした。ですがこちらでは、布を運ぶ人、吊るす人、寸法を測り直す人が必要になります」


 橋板が、風でかすかに鳴った。


「水路の見回りも一日減りました。倉の確認も半日遅れています。どちらも、王都の見積もりには出ません」


 ルシアンは欄干へ手を伸ばしかけた。


 触れる直前で止まる。


 白い手袋が、泥の残る木の上でひどく浮いて見えた。


「……こちらでは、その布一枚を吊るすために、足元の安全を捨てさせたのか」


 イレーネは頷いた。


「はい」


 その返事は、短く、冷たかった。


 視察の最後にミレイアが案内したのは、親善行事の前室だった。


 薄い香油の匂いがする。鏡台の前で、フィオナが紹介の練習をしていた。


「本日は、このような親善の場にお招きいただき……」


 声は柔らかい。

 笑顔も整っている。


 周囲の婦人たちは、満足そうに頷いた。


「やはりお似合いですわ」

「これくらい華やかに笑っていただかないと、親善の顔になりませんもの」

「少し前へ出るだけで、場が明るくなりますわ」


 フィオナは笑った。


 ルシアンは、その光景に一瞬だけ安堵しかけた。


 うまくやれている。

 そう思いかけたのだろう。


 だが、婦人たちが紹介文へ目を落とした一瞬、フィオナが胸の奥に溜まった泥を吐き出すような、重い息を漏らした。


 長い息ではない。

 けれど、軽い息でもない。


 紹介文を持つ指先は、不自然なほど白い。紙の端が、握られたところだけ歪んでいる。


 ルシアンの顔から、わずかに色が引いた。


「……ミレイア」


「はい」


「彼女は、いつもああやって息を逃がしているのか」


 ミレイアは、すぐには答えなかった。


 ただ、フィオナの白く強張った指先を見つめる。


 それが肯定だと、ルシアンにもわかった。


 フィオナはまた婦人たちへ向けて笑った。

 今度の笑顔も整っている。


 整っているからこそ、痛かった。


「笑顔も、仕事なのか」


 ルシアンの声は、かすれていた。


 ミレイアは小さく言った。


「家のための仕事です」


 それ以上は言わない。


 言わなくても、フィオナの指が答えていた。


 帰り道、屋敷と会場をつなぐ石橋の上で、ルシアンは立ち止まった。


 川幅は狭い。

 水は浅く、朝の光を受けて鈍く光っている。


 ルシアンは欄干へ手を置いた。

 白い手袋が、古い石の上でまた浮いて見える。


「王都では整って見えた景色が」


 彼は、ゆっくり言った。


「ここでは、人を削るための装置だったんだな」


 セレフィーナはすぐには答えなかった。


 橋の下で、水が石に当たっている。


「綺麗な反省も、今は不要です」

 セレフィーナは言った。

「見たものを、そのまま持ち帰ってください」


 ルシアンは、欄干を握る手に力を込めた。

 白い手袋に、石のざらつきが移る。


「見てからでないと、わからないことだった」


 絞り出すような声だった。


「見に行ける立場なら、最初から見に行くべきでした」


 セレフィーナの言葉は鋭かった。


 ルシアンは否定しなかった。


「その通りだ」


 短い返事だった。


「次の案には、現場確認役を置く」

 ルシアンは続けた。

「王都の“軽い追加”が誰の食事を冷まし、どの補修を遅らせ、どの家の息を詰まらせるのか。確認してからでなければ、私はもう印を押さない」


「それだけでは足りませんわ」


「わかっている」

 ルシアンは頷いた。

「だが、まずそこから変える。王家の印が、現場を見ない言い訳に使われるのは、もう許さない」


 ノアが後ろから小さく笑った。


「ようやく、数字以外のものが見えてきたようですね。案外、不快な景色だったでしょう?」


「ああ」

 ルシアンは認めた。

「二度と忘れられないくらいには」


 その声には、王子らしい整った響きがなかった。


 馬車に乗り込むルシアンの背中は、朝よりもずっと重く見えた。


 セレフィーナは、その背中を見送る。


 ルシアンが乗り込む直前、白い手袋の指先に、小さな黒い汚れがついているのが見えた。橋の欄干の汚れか、帳場の紙に触れた時のものかはわからない。


 彼はそれに気づいても、払わなかった。


 馬車の扉が閉まる。


 セレフィーナは鞄の中の白紙へ手を伸ばした。

 次の書類に入れるべき一行は、もう決まっている。

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