第78話 王子に見せたい景色
夜明け前の帳場には、まだ灯りが残っていた。
油の減ったランプが三つ、黄ばんだ火で山になった紙を照らしている。インクと古い油が混ざった匂いの中に、冷え切った茶の渋さが沈んでいた。机の端には、石のように硬くなったパンが置かれている。
王都の執務室にはない匂いだった。
整えられた紙の匂いではない。
人の夜を削った後に残る匂いだ。
ルシアンは、入口で足を止めた。
セレフィーナは何も言わない。
イレーネが一枚の紙を示した。
「昨夜届いた『確認一点』のために、三人が夜を明かしました」
王都からの追加照会。
表題だけ見れば、たいしたことのない確認だった。
「一人は水路、一人は在庫確認を止めました。もう一人は、宿泊名簿の照合へ入る予定でした」
イレーネの声は淡々としている。
「王都での一点は、ここでは三人の一日です」
帳場の奥で、若い書記の筆先が震えた。
眠気で手元が狂ったのだろう。まだ乾いていない文字を擦り、黒い汚れが広がる。
「……申し訳ありません」
書記が小さく頭を下げる。
イレーネは責めなかった。
ただ、別の紙を差し出す。
「こちらへ写し直してください」
ルシアンの喉が動いた。
王都なら、不備。
確認不足。
再提出。
そう呼んでいたものが、ここでは眠れなかった人間の指から生まれている。
「丁寧な、仕事だと……?」
掠れた声が落ちた。
王都で正しいとされていた手続き。
自分も疑わずに見てきた整った確認。
それが目の前の人間を机に縫いつけ、朝食の時間まで奪っている。
ルシアンは、インクで黒くなった書記の指を見つめた。
見続けられず、少しだけ視線を外した。
セレフィーナは歩き出した。
次に向かったのは、屋敷の裏手にある古い木橋だった。
来賓が通る正面の道ではない。荷車や使用人が使う、幅の狭い橋だ。板の一枚が浮いている。踏めば、ぎしりと嫌な音を立てた。
「ここは、昨日のうちに補修する予定でした」
イレーネが言う。
橋板の端には、応急で打たれた釘が見える。だが中央の傷んだ部分には手が入っていない。
「人手が足りず、明日へ回しました」
「なぜ足りなくなった」
ルシアンの問いは短い。
「会場の装飾布を増やすことになったからです」
イレーネは淡々と答えた。
「王都側の見積もりでは、軽微な変更でした。ですがこちらでは、布を運ぶ人、吊るす人、寸法を測り直す人が必要になります」
橋板が、風でかすかに鳴った。
「水路の見回りも一日減りました。倉の確認も半日遅れています。どちらも、王都の見積もりには出ません」
ルシアンは欄干へ手を伸ばしかけた。
触れる直前で止まる。
白い手袋が、泥の残る木の上でひどく浮いて見えた。
「……こちらでは、その布一枚を吊るすために、足元の安全を捨てさせたのか」
イレーネは頷いた。
「はい」
その返事は、短く、冷たかった。
視察の最後にミレイアが案内したのは、親善行事の前室だった。
薄い香油の匂いがする。鏡台の前で、フィオナが紹介の練習をしていた。
「本日は、このような親善の場にお招きいただき……」
声は柔らかい。
笑顔も整っている。
周囲の婦人たちは、満足そうに頷いた。
「やはりお似合いですわ」
「これくらい華やかに笑っていただかないと、親善の顔になりませんもの」
「少し前へ出るだけで、場が明るくなりますわ」
フィオナは笑った。
ルシアンは、その光景に一瞬だけ安堵しかけた。
うまくやれている。
そう思いかけたのだろう。
だが、婦人たちが紹介文へ目を落とした一瞬、フィオナが胸の奥に溜まった泥を吐き出すような、重い息を漏らした。
長い息ではない。
けれど、軽い息でもない。
紹介文を持つ指先は、不自然なほど白い。紙の端が、握られたところだけ歪んでいる。
ルシアンの顔から、わずかに色が引いた。
「……ミレイア」
「はい」
「彼女は、いつもああやって息を逃がしているのか」
ミレイアは、すぐには答えなかった。
ただ、フィオナの白く強張った指先を見つめる。
それが肯定だと、ルシアンにもわかった。
フィオナはまた婦人たちへ向けて笑った。
今度の笑顔も整っている。
整っているからこそ、痛かった。
「笑顔も、仕事なのか」
ルシアンの声は、かすれていた。
ミレイアは小さく言った。
「家のための仕事です」
それ以上は言わない。
言わなくても、フィオナの指が答えていた。
帰り道、屋敷と会場をつなぐ石橋の上で、ルシアンは立ち止まった。
川幅は狭い。
水は浅く、朝の光を受けて鈍く光っている。
ルシアンは欄干へ手を置いた。
白い手袋が、古い石の上でまた浮いて見える。
「王都では整って見えた景色が」
彼は、ゆっくり言った。
「ここでは、人を削るための装置だったんだな」
セレフィーナはすぐには答えなかった。
橋の下で、水が石に当たっている。
「綺麗な反省も、今は不要です」
セレフィーナは言った。
「見たものを、そのまま持ち帰ってください」
ルシアンは、欄干を握る手に力を込めた。
白い手袋に、石のざらつきが移る。
「見てからでないと、わからないことだった」
絞り出すような声だった。
「見に行ける立場なら、最初から見に行くべきでした」
セレフィーナの言葉は鋭かった。
ルシアンは否定しなかった。
「その通りだ」
短い返事だった。
「次の案には、現場確認役を置く」
ルシアンは続けた。
「王都の“軽い追加”が誰の食事を冷まし、どの補修を遅らせ、どの家の息を詰まらせるのか。確認してからでなければ、私はもう印を押さない」
「それだけでは足りませんわ」
「わかっている」
ルシアンは頷いた。
「だが、まずそこから変える。王家の印が、現場を見ない言い訳に使われるのは、もう許さない」
ノアが後ろから小さく笑った。
「ようやく、数字以外のものが見えてきたようですね。案外、不快な景色だったでしょう?」
「ああ」
ルシアンは認めた。
「二度と忘れられないくらいには」
その声には、王子らしい整った響きがなかった。
馬車に乗り込むルシアンの背中は、朝よりもずっと重く見えた。
セレフィーナは、その背中を見送る。
ルシアンが乗り込む直前、白い手袋の指先に、小さな黒い汚れがついているのが見えた。橋の欄干の汚れか、帳場の紙に触れた時のものかはわからない。
彼はそれに気づいても、払わなかった。
馬車の扉が閉まる。
セレフィーナは鞄の中の白紙へ手を伸ばした。
次の書類に入れるべき一行は、もう決まっている。




