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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。【450万PV感謝】  作者: 星渡リン
第3部 第5章 王都の改革では足りなかった

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第77話 同じルールでは守れない

 机の上には、役に立たなかった「かつての正解」が並んでいた。


 正確には、役に立たなかったわけではない。

 王都では確かに、人を守った。空気だけで役を押しつけられる前に、本人の意思を紙へ刻ませた。責任の所在を曖昧にさせず、勝手な合意へ書き換えられる前に止めた。


 王都でセレフィーナを、そして誰かを救ったはずの書式たち。


 けれど今、それらは机の上で、ただの重たい紙束に成り果てている。


 本人意思確認書。

 役割変更申請書。


 罫線は整い、署名欄も十分にある。確認印の位置も、記入例も、王都の執務室なら申し分ない顔をしていた。


 それなのに、地方から戻ってきた写しは、暴力的なまでに白かった。


 辞退。

 保留。

 本人意思。


 そのあたりだけ、ペンを置くことすら拒絶されたように、ぽっかりと空いている。


「……書式自体は、間違っていないはずよ」


 自分で言って、奥歯に力が入った。


 王都では、これで空気を止めた。

 勝手に「合意」にされる前に、個人の意思を紙へ刻ませた。

 曖昧な役割変更には、理由と責任を書かせた。


 それが地方では、ただの「書けない家」をあぶり出す踏み絵になっている。


 セレフィーナの指が、白い空欄の端を押さえた。

 紙は冷たい。けれど、その白さの奥には、人がペンを握れなかった熱がこびりついているようだった。


 エステルが、地方側の写しをそっと引き寄せた。


「王都では、記録は逃げ道でした」


 静かな声だった。

 けれど、ひどく冷えている。


「別の部署の方が見る。別の立場の方も読む。公開される場所がある。だから、一つの印象だけで押し切ることが難しくなりました」

 エステルは、空欄を指先でなぞる。

「でも、ここでは……記録を残すこと自体が、家に刻む消えない焼き印のようなものになるのです」


 セレフィーナの指先が止まった。


「ひとたび王都へ不満を漏らした家として記されれば、その汚れは次の会合にも、取引にも、神殿への手続きにも残ります。記録が盾になる場所と、標的を指し示す印になる場所があるのだと思います」


 紙の白さが、急に違うものに見えた。


 書かれていないのではない。

 書いた後に何が起きるかを知っているから、書けなかったのだ。


「実務も限界です」


 イレーネが、別の控えを机へ置いた。


 叩きつけた、というほど乱暴ではない。

 だが紙束が重い音を立てた。中には、走り書きの計算がびっしり詰め込まれている。数字と矢印と、途中で書き直した跡。まるで紙そのものが息切れしているようだった。


「この王都式の書式一式を埋めるのに、何枚の添付資料が必要だと思いますか」

 イレーネの声は淡々としていた。

「書記が一人しかいない小家では、この紙一枚のために村の祭礼準備が止まります。倉の確認も、水路の見回りも、帳簿の締めも後ろへずれる」

 そこで、彼女は王都式の書式を指で押した。

「守るための様式が、地方では新しい無償労働の命令書になります」


 ノアが底意地の悪い笑みを浮かべた。


「お嬢様、王都の厚い盾は、ここではただの重石ですね」

 彼は紙束を軽く持ち上げ、すぐに落とした。

 どさり、と鈍い音がする。

「良い紙ほど、それを持てる体力のある家と、持てない家を選別する。なかなか嫌な現実です」


「……わかっているわよ」


 セレフィーナは吐き捨てた。


 薄い紙では守れない。

 だから厚くした。確認を増やし、言質を取り、逃げ道を塞いだ。


 それが王都での勝ち方だった。

 それを今、地方の紙が無言で突き返している。


 ミレイアが、フィオナの紹介文控えを机に置いた。


 余白には、彼女が書き足した小さな文字がある。


 本人意思確認、未了。


「本人意思確認も、足りませんでした」

 ミレイアの声には、いつもの柔らかさが残っている。けれど、その下に硬い怒りが沈んでいた。

「フィオナ様は、“辞退”と書けないのではありません。書いた後、ルベール家がどう見られるかを先に考えてしまうんです」

 紙の皺を指先で押さえる。

「本人の意思を聞く欄だけでは足りません。断った後を守る欄が必要です」


 セレフィーナの中で、第76話の夜に書いた一行が熱を持つ。


 拒否または辞退を、不利益評価へ用いないこと。


 あれは、その場しのぎの毒抜きではなかった。

 王都版の正しさに欠けていた、骨だった。


 エステルの記録。

 イレーネの負担。

 ミレイアの本人意思。

 ノアの嫌味混じりの正論。


 机の上の紙が、いっせいにこちらを向いているようだった。


 セレフィーナは、王都版の本人意思確認書をもう一度手に取った。


 角を揃える。

 地方側の控えを重ねる。


 合わない。


 ほんの数ミリ、地方側の紙がはみ出す。


 もう一度揃える。

 添付資料の厚みが邪魔をして、またずれる。


 紙の高さが違う。

 背負わされているものの高さが違う。


 セレフィーナは、赤いペンを握った。


「なら、直すわ」


 自分が生み出した正解を、自分の手で切り裂く。

 その感覚は少しばかり痛かった。だが、痛いからやめるほど安い覚悟で、この椅子に座っているわけではない。


 赤いペン先が、王都版様式の余白へ落ちる。


 地方運用時、別紙確認必須。


 その下へ、さらに書き込む。


 辞退または保留を、当該家の親善姿勢および協力度に関する不利益評価へ用いないこと。


 ペンが紙を削る鋭い音が、静まり返った室内に響いた。

 一文字ごとに、王都の横暴を叩き折るための冷たい工具が打ち込まれていく。


「イレーネ」

「はい」

「実務負担の確認項目を追加して。書式一式に必要な人手、時間、添付資料の枚数。地方側の負担を数字で逃がさないように」

「承知しました」


 イレーネが即座に自分の控えを引き寄せる。

 筆を取る手には、もう被害者の影はない。数字で殴り返す人の手だった。


「ミレイア」

「はい」

「本人意思確認前に紹介文を確定させることを禁じるわ。本人が“考えます”と言える期間も明記して」

「はい」


 ミレイアの返事は、静かだが強い。

 フィオナの折れた紹介文を見た目が、そのままペン先へ乗っているようだった。


「エステル」

「承知しております」

 エステルは王都版の記録様式を手に取った。

「記録を、他家への攻撃材料として用いないための秘匿範囲と閲覧権限ですね」

「ええ。記録が盾から焼き印に変わるのを止める」


 三人のペンが動き出す。


 もはや、ただの修正会議ではなかった。

 橋の向こう側まで届くための、新しい言語を組み立てている。


 ノアが横から覗き込み、にやりと笑った。


「ずいぶん嫌な紙になりましたね。王都の役人が読めば、泡を吹いて倒れるでしょう」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

「もちろん褒めています。こんなに親切で、こんなに逃げ道のない紙はなかなかありません」

「それは重畳」


 セレフィーナは、赤字だらけになった様式の余白へ、さらに一行を書き添えた。


 地方運用時、中央側または共同窓口による記録作成補助を必須とする。


 イレーネが、その文字を見て、わずかに息を止めた。


「それがあれば、書ける家だけに負担が寄るのを減らせます」

「そのための補助よ」

「……助かります」

「まだよ」

 セレフィーナはペン先を上げる。

「実際に動かなければ、ただの赤い落書きだわ」


 それでも、イレーネの肩がほんの少しだけ下がった。

 それまで目に見えない荷を背負っていた場所から、紙一枚分だけ重さが抜けたように見えた。


 セレフィーナは、王都版様式の端を押さえる。


「王都で作った正しさは、壊れていたわけではない」

 赤い余白を見る。

「橋を渡るには、継ぎ目が弱すぎたのよ」


 その時、廊下から足音が近づいた。


 控えめなノックのあと、ルシアンが入ってくる。


「遅くなった」


 彼は机の上を見て、言葉を失った。


 白かった書類は、赤でひどく汚れている。

 欄外に伸びる矢印。余白を埋める注意書き。王都版のきれいな様式は、もはや元の顔をしていない。


「……何をしているんだ」


「増やしているのよ、殿下」


 セレフィーナはペンを置かずに答えた。


「王都の様式では、地方を守りきれないとわかったから」


 ルシアンは机へ近づき、空欄だらけの本人意思確認書を見る。

 次に、赤で塗りつぶされかけた修正案を見る。


 彼の指先が、わずかに震えた。


 それは綺麗な反省の仕草ではなかった。

 自分の側の善意が、相手の夜と家名を削っていたことを、今さら紙の上で突きつけられた人間の、情けない震えだった。


「紙だけでは伝わらないわね」


 セレフィーナは、ルシアンをまっすぐ見た。


「王都の“軽いお願い”が、地方の夜をどれだけ潰し、家名をどれほど削っているか。殿下には、現場を見ていただきます」


 ルシアンは黙っていた。


 逃げる言葉を探している沈黙ではなかった。

 見たくないものを飲み込むために、喉を動かしている沈黙だった。


「見る」


 やっと出た声は、掠れていた。


「見なければならないな。……僕たちが、善意で何を壊してきたのか」


「ええ」

 セレフィーナは新しい紙を引き寄せる。

「そうしてください」


 そして、赤いペンをもう一度落とした。


 正しさの方を書き換える。

 橋の向こう側で、誰も息を奪われないように。

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― 新着の感想 ―
登場人物が突然第◯話とか言い出してメタ視点してまうの、AIの特徴って聞いたことあります。 見直ししないのかな。
最近の小説読んでると第〇話とか突然メタ的な要素が地の文で出てくるんですよね。若い人たちの文化なのですかね。
第76話というのを、話の中の登場人物が俯瞰して見ている…???
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