第71話 言いにくいことを言う人
机に並ぶ真新しいインクと糊の匂いが、やけに鼻についた。
宿泊割当、移動表、随行人員の控え、荷受けと名簿照合の手順書。どの紙も字は端正で、余白まで行儀がいい。だが、その無機質な香りの裏側に、誰かの労働を透明にして踏み潰す王都の正論が潜んでいる。
実務調整会は、その綺麗な紙束を前に始まった。
「では、本日は皆さまのご協力を前提に、無理のない範囲で役割と費用の整理を進めたく存じます」
王都側補佐の男は、よく通る声でそう言った。聞こえのいい声だった。そういう声で言われると、多くの人は反論の角度を一瞬見失う。
「宿泊につきましては柔軟に」
「随行人員に不足が出た場合は現場で補い合い」
「細かな確認は、実務に明るい家にお力添えを」
柔軟に。補い合い。お力添え。
紙の上では丸い言葉ばかりだ。その丸さのせいで、最後に誰が重みを持つのかが見えにくくなっている。
「確認よろしいでしょうか」
イレーネが口を開いた。
その一声で、室内の視線がゆるく集まる。イレーネは宿泊表の一角を指で押さえたまま、淡々と続けた。
「前泊が必要とされた家が偏っています。距離だけが理由なら他にも候補はありますが、こちらには『実務確認も兼ねて前日入りを』、あちらには『当日でも差し支えないでしょう』とあります」
紙をめくる。
「待機人員の費用も同じです。『気づいた方が補う』のなら、最後は実務担当へ流れます」
補佐の男は答えなかった。
代わりに、隣に座る補佐へ目だけを流す。ほんの一瞬の苦笑い。
ああ、またそれかとでも言いたげな、言葉にしない軽視だった。
「“皆で少しずつ”は、たいてい少ない家から多く取る言い方です」
イレーネの声は低く、平らだった。
誰かが茶器を置いた乾いた音が、イレーネの言葉を物理的に断ち切る鋭い音として室内に残った。
今度も、誰も中身には返ってこない。
「言い方が少々きつく聞こえますわね」
年長の婦人が扇を閉じながら言う。
「親善の席で、そこまで仰るのは」
「もう少し穏やかにお話しできれば」
「地方側の事情ばかり強く出されても、全体の流れがございますでしょう」
費用の偏りは消えない。
人手の不足も消えない。
だが、今ここで処理され始めたのは数字ではなく、イレーネという声の方だった。
評価という名の、洗練された絞め技。内容に触れず、ただ「場にそぐわない」という札だけを首へ掛ける。その手つきの鮮やかさに、セレフィーナは吐き気すら覚えた。
「やはり、場を和らげる方は必要ですわね」
別の婦人が、何事もなかったように微笑んだ。
「ルベール家のお嬢様のような方が前にいらっしゃると、皆さまも安心なさるでしょうし」
フィオナの名が、そこで持ち上げられる。
イレーネは数える側。
フィオナは和らげる側。
その振り分けが、その場で自然なことみたいに置かれていく。
ミレイアの手元の紙が、かすかに鳴った。握る力が強くなったのだろう。
イレーネは引かなかった。
「安心なさるのは、どなたですか」
その問いは、驚くほど静かだった。
「前に立つ家ですか。帳簿を持たない家ですか。それとも、後で赤字を埋める家ですか」
補佐の男が、持っていたペンを机へ置いた。
乾いた小さな音。
議論はそこで物理的に遮断された。
「……本件は一度持ち帰りましょう」
彼は穏やかな調子のまま言う。
「本日は全体の進行確認を優先しておりますので」
逃がした。
宿代の偏りも、人手不足も、未計上の補助業務も、全部まとめて「今日はそこまで詰める場ではない」の下へ押し込む。
ノアが資料の端を二度叩いた。
宿割表の欄外。随行人員表の余白。
同じ筆跡の補記が並んでいる。あとで刺せる急所だと、黙って示すにはそれで十分だった。
その時、ルシアンの指先が、王家公印のすぐ脇に並んだ数字をなぞった。
宿泊費の配分、随行人員の不足分、未計上の補助業務。
自分の名で出される書類が、これほど無様な計算の歪みを抱えたまま流れている。その屈辱に、彼の指が白くなる。
口を開きかけたが、遅い。
もうこの場は、数字の話ではなく「イレーネが感じの悪いことを言った」という形で畳まれ始めている。
会合は、驚くほど穏やかに閉じた。
感謝。再整理。持ち帰り。丁寧な確認。
綺麗な言葉だけが机の上へ残る。
人が立つ。椅子が引かれる。裾が床を擦る。
イレーネは最後まで席を立たず、自分の前の資料を一枚ずつ揃えていた。角と角を打ち合わせる音が小さく続く。剃刀のように鋭く、狂いがない。
「有能ではありますけれど」
「親善向きではありませんわね」
「地方代表としては、少し尖りすぎでは」
評価という名の、逃げ場のない檻。悪口なら言い返せても、この「忠告」を装った拒絶は、小さな家の喉元を静かに焼き切っていく。
セレフィーナは何も言わず、イレーネが揃え終えた白い紙束を引き寄せた。
端はあまりに真っ直ぐで、指を滑らせれば切れそうだった。




