第70話 柔らかい子が選ばれる
控え室は、花より香油の匂いの方が強かった。
丸卓の上には、挨拶順の控え、立ち位置の図、紹介文の清書前案。上等な紙は薄くて軽いくせに、そこへ載せられた役目だけが嫌に重い。
「ルベール家のお嬢様が前に立ってくださると、場が締まりますわね」
「ええ。こういう役は、似合う方にお願いするのが一番ですもの」
それだけで十分だった。
フィオナの指が、紹介文の紙を掴んだまま離れない。爪のきわが白くなっている。笑おうとしている口元より先に、そちらが目についた。
「私でお役に立てるのでしたら」
フィオナはきちんと返した。
けれど、言葉の最後が少しだけ遅れる。笑顔を作るのに、毎回ひと呼吸ぶん余計にかかっていた。
ミレイアは、それを見ていた。
紙を渡される。
褒められる。
笑って受ける。
その繰り返しのたびに、フィオナの返事は少しずつ鈍くなる。
「フィオナ様」
ミレイアは立ち上がった。
「会場までの導線、先に一度だけ見ていただけますか」
「あ……はい、もちろん」
「まあ、助かりますわ」
婦人たちは気軽に頷いた。
「立ち位置は大事ですものね」
その言い方に、ミレイアは奥歯を噛みしめた。
控え室を出る。
香油の濃い匂いが背中の方へ遠ざかり、廊下の冷たい空気が肺へ入ってきた。二人は並んだまま歩く。足音だけが細く響く。
しばらく進んだところで、ミレイアは前を向いたまま言った。
「断った時のことを考えて、苦しくなっていませんか」
隣の気配が止まった。
フィオナは、息を吸って、それを吐くタイミングを失ったような間を作った。握っていた紙の端が、かさりと擦れる。
「皆さん、悪気はないんです」
やっと出た声は、小さかった。
「期待してくださっているのも、わかるんです。ありがたいとも思っています」
二歩、三歩。
「でも……」
そこで言葉が切れる。
また紙が擦れる音がした。
「似合うって言われるほど、嫌だって言いにくくなるんです」
ミレイアは足を緩めた。
廊下の窓から、午後の光が細く差している。そこへ立ち止まると、フィオナの横顔が白く見えた。疲れている顔だった。泣きそうでも怒っているでもない。ただ、ずっと笑っていた人の顔だ。
「『柔らかい』なんて、便利な言葉」
ミレイアは低く言った。
「自分たちが悪者になりたくなくて、笑うしかない子をそこへ押し込んでるだけです」
フィオナが、目だけでこちらを見る。
「前に立てるからじゃありません。断ると、自分の方が場を壊したみたいな気分になる子へ回しているんです」
フィオナはすぐには答えなかった。
ただ、持っていた紙を胸元へ寄せる。抱えるみたいに。
「……笑っていた方が、早く終わるでしょう」
ぽつりとこぼれる。
「皆さんも安心なさるし、空気も悪くならないし」
唇を噛み、すぐに離した。
「そうしているうちに、自分でも、じゃあ私でいいのかなって思うんです。思わないと、立っていられなくて」
ミレイアはそれを聞いて、胸の奥がざらりとした。
わかる。
わかるけれど、その一言で片づけたくない。
この子は、わかるで済ませたまま押し出されていい子ではない。
「それ、立っているんじゃありません」
ミレイアは言った。
「立たされてるんです」
フィオナの足が止まる。
廊下の突き当たりには、小さな飾り鏡が掛かっていた。通りすがりに身だしなみを確かめるためのものだろう。二人の姿が半分ずつ映っている。
「私」
フィオナは鏡を見ないまま言った。
「前に立つこと自体が嫌なわけではないんです」
「ええ」
「でも、先に“あなたでしょう”って決められると、息が浅くなります」
そこでやっと、かすかに笑った。
「こんな顔で言っても、説得力がないですよね」
ミレイアは即座に首を振った。
「その顔だからこそ、でしょう」
少しだけ語気が強くなる。
「その顔をしてくれるから、皆さん平気で載せるんです」
フィオナは黙った。
黙ったまま、ゆっくり鏡の方へ顔を向ける。
ミレイアは一歩引いた。
もう、これ以上は言わない方がいいとわかったからだ。
フィオナは鏡の前で、一度だけ笑ってみせた。
口角は綺麗に上がった。
けれど目が死んでいた。
その顔は、ほんの一息も持たなかった。
フィオナはすぐにそれを消した。鏡の中の自分を見るのをやめ、握っていた紙を折りそうなほど強く掴む。
ミレイアは、何も言わなかった。
もう十分だった。
あの笑顔は、前へ出る人の顔ではない。
前へ出るよう押し込まれた人の顔だ。




