第62話 感じの悪い地方令嬢
準備室へ足を踏み入れた瞬間、セレフィーナは肩の奥に薄い重さを感じた。
高い窓から白い昼の光が落ちている。長机の上には帳簿と負担表が整然と並び、その几帳面さが妙に冷たかった。紙の列が、誰かを待ち受けるために立てられた柵のように見える。
地方側の代理者たちはすでに席についていた。王都側の実務補佐、神殿の補助書記、年長の婦人たち。どの顔にも笑みはある。だが、机の上の数字だけが最初から一歩も引いていなかった。
ノアは壁際へ下がった。視界の端にすべてを入れられる、いつもの位置だ。
その時、セレフィーナの視線が一人の令嬢で止まる。
濃い青の衣装。飾りは少ない。髪は作業の邪魔にならぬようきっちりまとめられていた。彼女の目は、配られた紙を追う速度が異様に速い。隣の者が頁をめくる前に、もう次の数字へ触れている。
「フォルク家のイレーネと申します」
挨拶は、鋭利な刃物で余分な脂を削ぎ落としたあとのように冷たく澄んでいた。耳に残るのに、余分なものが何一つない。
「アシュクロフト家のセレフィーナです」
「よろしくお願いいたします」
それだけで、イレーネはすぐ資料へ視線を戻した。
速い子だ、とセレフィーナは思う。
会合が始まった。
王都側の補佐役が、よく通るが角の取れた声で話を進めていく。各家の負担はできるだけ公平に。親善の趣旨を損なわぬよう柔軟に。細部は現場の善意で補いながら。
セレフィーナの目は、負担表の一箇所で止まった。
随行人員の予備費
そこだけが、ぬるりと逃げ道を持っている。誰がどこまで持つのか、その線がぼかされていた。地方側の財布を開けるなら、こういう一行からだ。
「“できるだけ”では帳簿に落ちません」
空気が止まった。
イレーネだった。
彼女はその一行へ指先を置いたまま、まっすぐ言う。
「各家の持ち分を明記してください。予備費が曖昧なままだと、最後に人数の少ない家から削られます」
目線は紙の上だ。
「公平という語を使うなら、数字で示すべきです」
王都側の補佐役の笑顔が、ほんの一瞬だけ遅れた。
「もちろん、そのつもりではあります。ただ、この場ではまず大枠の合意を」
「大枠の時点で曖昧だと、細部で押しつけが起きます」
イレーネは間を空けない。
「“後で調整する”は、たいてい小さい家が多く持つ言い方です」
向かいの婦人がふわりと笑った。
「地方の方は率直ですのね」
「率直である必要があります」
イレーネは即答する。
「帳簿は空気を読みません」
その言葉が落ちた瞬間、補佐役はイレーネを見なかった。手元の紙を閉じ、顔の向きごと別の場所へ変える。
「……では、その件は後ほど実務で確認いたしましょう」
そして何事もなかったように続けた。
「さて、皆様。紹介順の確認へ移ってよろしいでしょうか」
雑だった。
けれど、こういう雑さの方が人を早く消す。
イレーネは一瞬だけ目を細めたが、食い下がらなかった。代わりに、自分の負担表へ何か書き加える。反論の代わりに、数字を残す子なのだ。
その横で、エステルの指先が白くなるほど強く膝の布を握りしめていた。
立ち上がりはしない。声も出さない。けれど、彼女の中で何かが凍りついたのが、見て取れる。自分がどんな言葉で削られてきたかを知っている人間だけが持つ、あの殺気だった。
彼女にはもう見えているのだろう。
イレーネがどれほど正しいか。
そして、その正しさがどれほど無残に踏みにじられようとしているかが。
会合はそのまま先へ流された。
紹介役、神殿側挨拶、地方側補助、席次、立ち位置。イレーネが口を開くたび、話は具体になる。だがそのたびに、彼女の席の周りだけ、目に見えない膜でも張られたように人が一歩引いていく。
「確認責任者の記名欄がありません」
「期限を変えないなら、地方側の人員を一名増やしてください」
「それが無理なら、控えの部数を減らすべきです」
磨かれた石みたいな言葉だった。硬く、正確で、周囲が纏っている“柔らかな嘘”だけをきれいに削り取っていく。
けれど、そのたびに王都側の顔には別の文字が浮かぶ。
強い。
きつい。
親善向きではない。
やがて会合が終わり、人が席を立ち始めた。
椅子が引かれる音。書類を重ねる音。そこへ急に、和やかな笑い声が戻ってくる。さっきまでの数字の話を最初から存在しなかったことにするみたいに。
「では、紹介順はあちらを先に」
「ルベール家なら雰囲気も明るいでしょうし」
「そのあたりは柔らかい方でまとめましょう」
イレーネがまだそこにいるのに、もういないものとして話が進む。
正しい数字が、笑い声に押し流されていく。
セレフィーナはその前へ歩み寄った。
「速いわね」
イレーネが顔を上げる。
「数字を拾うのが」
「慣れていますので」
「それで損をしたことは?」
「損、ですか」
「今みたいに、数字の話をしたのに、次の瞬間には“場の雰囲気”の方へ持っていかれること」
イレーネは少し考えた。
「よくあります」
それから、驚くほどまっすぐな顔で言う。
「でも、実務が滞らなければ、それでよいのでは?」
喉の奥に、砂を噛んだような不快感が残った。
この子はまだ、本気で知らない。
帳簿が合うことと、その場に残してもらえることが別だという現実を。
しかも、その別れ道では、たいてい正しい方から先に落とされる。
「……そう」
セレフィーナはそれだけ返した。
今ここで“気をつけて”と告げても届かない。
数字を守ることが、そのまま自分を守ることだと、イレーネはまだ信じている。
イレーネは一礼して、資料を抱えた。背筋はまっすぐで、足取りにも迷いがない。
壁際からノアが低く言う。
「お嬢様」
「何」
「今日、あのイレーネ様が直させた数字」
彼は負担表を顎で示した。
「明日の朝には、別の“もっともらしい理由”で元に戻されている方に、私は銀貨一枚賭けますよ」
「笑えないわ」
「ええ。実務屋から見ると、まったく」
イレーネの背中が扉の向こうへ消える。
次の瞬間、机に残された負担表の頁を、王都側の補佐役がそっとめくった。
紙の擦れる音が、やけに小さく、やけに嫌らしく部屋に残った。




