第63話 前へ出される親善役
前室は、花の香りが鼻につくほど濃かった。
甘い匂いのなかで、婦人たちの扇がぱちり、ぱちりと乾いた音を立てる。そのたびに、誰かの逃げ道へ杭が打たれていくように、ミレイアには聞こえた。
「やはりルベール家のお嬢様がよろしいですわ」
「ええ。場の顔にぴったりですもの」
「断るようなことではありませんわね」
その中心に、フィオナ・ルベールは座っていた。
明るい栗色の髪。やわらかい受け答え。笑えばその場が整う。たしかに、こういう役へ押し上げるには都合のいい子だった。
「皆さまがそうお望みでしたら」
フィオナは笑った。
「私でお役に立てるのでしたら、うれしいです」
その笑みを見た瞬間、ミレイアの奥歯が小さく鳴った。
口元はきれいに上がっている。けれど、その端がほんのわずかに震えている。厚く塗った白粉の下で、顔だけが先に役目を引き受け、本人はまだ追いついていない。そんな笑い方だった。
フィオナの扇が、閉じかけて、また開いた。指先に無駄な力が入っている。
ミレイアは立ち上がった。
「フィオナ様」
やわらかく声をかける。
「紹介文の文言、少しだけご一緒に見ていただけますか」
「まあ、ちょうどよかったですわ」
「お若い方同士で整えてくだされば」
「ええ、内容を整えるだけですもの」
内容を整えるだけ。
その軽い響きに、ミレイアの奥歯がもう一度鳴った。
「少しだけ失礼します」
フィオナは立ち上がり、ミレイアに続いた。
廊下の窓辺まで来ると、花の匂いがようやく少し薄くなった。
フィオナはそこで、そっと息を吐いた。
「ごめんなさい」
先に口を開いたのはフィオナだった。
「私、何か変な返し方をしてしまいましたか」
「いいえ」
ミレイアは首を振る。
「きれいに返しすぎただけです」
フィオナは困ったように笑う。
「皆さん、悪気はないんです」
「知っています」
「期待してくださっているのも、わかるんです。だから……」
フィオナは扇を握る指に力を込めた。
「嫌だと思う方が、私の方でおかしい気がして」
そこまで聞けば十分だった。
ミレイアは、手にしていた紹介文案を開いた。余白へ指を置く。
「フィオナ様」
「はい」
「ここに一行、足してしまいましょう」
「え」
ミレイアはぺんを差し出す。
「本人確認前案につき、受諾未定」
フィオナが目を見開く。
「そんなこと、書いてしまって」
「書いてしまうんです」
ミレイアは静かに言った。
「似合うとか、安心するとか、そういう綺麗な言葉で先に固められるなら、紙の上で先に止めるしかありません」
「でも……」
「そんなに前に立たせたいなら、自分たちで立てばいいんです」
少しだけ、語気が強くなる。
「あなたが笑ってあげる義理なんて、どこにもありません」
フィオナは、まじまじとミレイアを見た。
「それに」
ミレイアは続ける。
「今ここで決めなくてもいいんです。決める前に決まったことにされるのが、いちばん面倒ですから」
フィオナの喉が、小さく動いた。
「……私、前に立つのが嫌いなわけではないんです」
「ええ」
「でも、選ぶ前に“あなたでしょう”って置かれると、急に息が苦しくなって」
扇の骨をきゅっと握る。
「それでも笑えるから、余計に向いているように見えるんでしょうね」
ミレイアはうなずいた。
かつて自分の喉に刺さっていた棘が、今は目の前の少女の声の奥に見える。思い出すより先に、手が動いた理由はそれだけだった。
「書きましょう」
ぺんをもう一度差し出す。
フィオナは迷ったあと、受け取った。
余白に、細い字が入る。
本人確認前案につき、受諾未定
たった一行。
それだけで、さっきまで首に回っていた見えない輪が、少しだけ緩んだ。
フィオナはその字を見つめたまま、小さく笑った。
まだ弱い。けれど、借り物ではない。自分の足で踏ん張ろうとする顔だった。
「……ずいぶん可愛くないですね」
「ええ」
ミレイアも少し笑う。
「でも、よく効きます」
二人で前室へ戻る。
婦人たちはすぐに顔を上げた。
「まあ、いかがでした?」
「紹介文の細かいところを」
ミレイアが先に言う。
「少し整えました」
フィオナは、その紙を卓の上へ置いた。
茶器の触れ合う小さな音が、ひどく耳障りに響いた。
「……受諾未定、ですって?」
年長の婦人が、さすがに眉を寄せる。
「これでは神殿へ提出する確定名簿が完成しませんわ」
「ええ」
ミレイアは穏やかに頷いた。
「確定しておりませんので」
「ですが、ここまで話が進んでいて」
「ご本人がまだお決めになっていないのです」
ミレイアは相手の声へかぶせた。
「先に確定名簿へ載せる方が、少々早いかと」
今度は、沈黙ではなく実務が止まった。
婦人たちの視線が紙へ落ちる。補佐役の手が、名簿の欄をめくって止まる。神殿へ回す写し、紹介順、席札。全部がこの一行で一度止まる。
「……では」
補佐の一人が咳払いをした。
「この件は、改めてご本人のご意向を確認の上で」
「それがよろしいかと」
ミレイアはにこりと笑った。
穏当、という顔のまま、流れを止めた。
会合が終わる頃には、象徴役の文言は“候補”へ戻り、紹介文の草案には修正印がいくつも増えていた。たった一行。けれど、その一行のせいで、勝手に前へ出されるはずだった話は、いったん全部やり直しになった。
夜。
ミレイアは、その紙を持ってセレフィーナの部屋を訪ねた。
扉が閉まるなり、紙を差し出す。
「あの子、自分で選ぶ前に“似合う役”を渡されかけていました」
セレフィーナは紙を受け取り、余白の一行を見つけた。
本人確認前案につき、受諾未定
口元が、ほんの少しだけ歪む。
「ずいぶん可愛くない手を覚えたのね」
「良い先生がおりますので」
「そう」
セレフィーナは紙を裏返した。推薦文の末尾へ視線を落とす。そこには、推挙責任者の名がある。
指先でその署名欄をとん、と叩いた。
「なら次は」
ぺんを取り上げる。
「この綺麗な推薦文を書いた人間に、どこまで責任を持つつもりか聞いてあげましょうか」




