第60話 配役表を書き換える人
エステルのペンが、迷いなく紙を削っていた。
昨日までなら、そこに何を書くべきかを確かめるために一拍置いていたはずだ。今は違う。公開確認会で刺さった箇所を思い出すたび、赤い印が増えていく。提案者欄の位置。保留記録の見出し。個人的所見の付記場所。どれも容赦がない。
「そこ、もう切るの?」
セレフィーナが覗き込むと、エステルは顔を上げずに答えた。
「切ります。次は、言い逃れの余地ごと残さない方がいいです」
「嫌がられるわよ」
「はい」
即答だった。
「だから先に入れます」
机の端には、無造作に放られた封書が一通ある。
神殿からの受理印付きだった。
文面は相変わらず、気に入らないものを飲み込んだ時だけ出る、やけに丁寧な顔をしている。
慎重な検討を望む。
今後の運用については引き続き協議する。
今回の進行を踏まえ、必要な調整を行う。
どれも腹が立つほど曖昧だ。
そのくせ、もう前みたいに「やはり従来どおりが相応しい」とは書けない。
セレフィーナはその紙を二本の指でつまみ、机の端へ押しやった。
「顔が悪いですよ、お嬢様」
窓際で別の文書を読んでいたノアが言う。
「神殿の文章を読んだ後で、愛想よくできる人の方が怖いわ」
「たしかに」
ノアは肩をすくめる。
「今回はだいぶ飲み込みましたね。紙の上でだけでも」
「飲み込ませたのよ」
「言い方が極悪ですね」
「褒め言葉として受け取るわ」
隣では、リリアが小さな返書を前に、まだ考え込んでいた。
神殿側から届いた打診への返答だ。受けるとも断るとも、まだ書いていない。細い指で便箋の端を押さえ、同じ一文を何度も見直している。
少し考える時間をいただきたく存じます。
「その文で大丈夫よ」
セレフィーナが言うと、リリアは顔を上げた。
「曖昧ではありませんか」
「十分よ」
セレフィーナは答える。
「すぐに笑って受け取らない。それだけで、前よりずっとはっきりしてる」
リリアは少し黙ってから、ようやく頷いた。
そのやり取りへ重なるように、ミレイアが別の紙へ赤を入れる。
「この“差し支えなければ”も削りたいです」
「どこ」
エステルが聞く。
「ここです」
ミレイアが指した。
「断った方が差し支えているように読めます」
「わかるわ」
セレフィーナが即座に返す。
「“皆の安心のために”も一緒に消す」
「はい。それ、並ぶと息がしづらいです」
ミレイアは眉を寄せた。
「読むだけで、もう引き受ける前提みたいになります」
エステルのペンが止まり、すぐにその箇所へ線が引かれる。
「では、両方とも削ります」
「あと、“柔らかな配慮”」
ノアが横から口を挟んだ。
「その辺の言葉、王都側が好んで使います」
「好んで使うなら、なおさら潰すわ」
セレフィーナが言うと、ノアが笑った。
「最近ほんとうに遠慮がなくなりましたね」
「遠慮していて面倒が減るなら、いくらでもしてあげるけれど」
「減らないでしょうね」
「ええ。だからやめたの」
紙をめくる音と、ペン先が走る音だけが部屋に満ちていく。
静かだ。
それなのに、妙に物騒な気配がするのが少しおかしい。
その時、ノアが一通の書簡をこちらへ差し出した。
「王家からです」
「また面倒そうな顔をしてる?」
「かなり」
ノアはわざとらしく目を細める。
「でも、前よりは使い道があります」
封を切ると、ルシアンの筆跡だった。
公開確認会での運用結果をもとに、当面は新様式を継続すること。
必要な修正は記録に基づいて行うこと。
個人への責任集中による収束は採らないこと。
そこまで読んで、セレフィーナは鼻で笑った。
「ようやく、自分の泥を自分で踏む気になったのね」
「まあ」
ノアが肩をすくめる。
「逃げなかったことだけは評価してあげてもいいんじゃないですか」
「そうね」
セレフィーナは手紙を畳む。
「あの顔で逃げ出さなかったことだけは認めてあげる」
一拍置く。
「覚悟ができたなら、これからもせいぜい使い倒してあげるけれど」
ノアが、いかにも楽しそうに笑った。
「殿下が聞いたら泣きますよ」
「泣く暇があるなら印を押してもらうわ」
「容赦がない」
「今さら?」
窓から伸びた午後の光が、机の上の紙を斜めに照らしていた。
エステルの赤い修正跡も、リリアのまだ短い返書も、ミレイアが消した文言も、その光の中では全部同じ白い紙の上に乗っている。
それが少しおかしかった。
こんな地味なものばかりで、人の立ち位置は変わる。
言葉の順番ひとつ、欄の位置ひとつ、確認の有無ひとつ。
その程度のことで、あれほど簡単に誰かは悪役へ押し込まれていたのだ。
だったら、その程度のことで戻せないようにしてやればいい。
セレフィーナは、自分の前の草稿を引き寄せた。
次の運用案だった。
修正済みの新様式、その次の確認順、さらに先の進行補足。誰かに見せる前の、まだ白さの多い紙。
前なら、こういう紙は自分の前になかった。
今はある。
それで十分だ。
「今度は、ちゃんと書き換わりましたね」
ノアが何でもない顔で言う。
セレフィーナは顔を上げた。
「まだ途中よ」
「途中まで来たなら上出来です」
「ずいぶん甘いのね」
「お嬢様にしては、です」
「喧嘩を売ってる?」
「励ましています」
「下手」
「仕様です」
思わず笑った。
ほんの少しだけだ。
途中。
それでいいのだろう。
神殿も学園も、完全に諦めたわけではない。
旧来派はまた戻してくる。もっと上手い言い方で。もっと“皆のため”らしい顔で。もっと厄介な形で。
でも、それも別に構わない。
戻ってくるなら、そのたびに読みにくくしてやればいい。
差し込みにくくして、笑顔のまま役を押しつけられないようにして、勝手に決めた“自然な流れ”とやらを、全部、紙の上で息苦しくしてやればいい。
セレフィーナはインク瓶の蓋を開けた。
黒い液が、夕方の光を鈍く返す。
舞台を壊して終わりでは足りなかった。
人ではなく役が先に決まる、あの薄っぺらい配役表は、破っただけではまた書き直される。
なら、その前にこちらが書き換えてしまえばいい。
ペン先を深く沈める。
次はどの“自然”を、どの“善意”を、どの“皆のため”を汚してやろうかしら。
そう考えると、少しだけ気分がよかった。




