第58話 誰も引かせない進行
進行は、腹が立つほど穏やかに始まった。
名前が呼ばれ、記録が取られ、確認が入る。
声は抑えられ、紙をめくる音だけがよく響く。
こういう時ほど、連中は差し込んでくる。
大声ではない。正論の顔をした、小さな横槍だ。
セレフィーナは席に座ったまま、進行役の手元と神殿側の席、その奥にいる学園側の年長者たちの目の動きだけを追っていた。
記録机では、エステルが確認文言を読み上げている。
声は硬い。だが、乱れてはいない。
最初の数件は、拍子抜けするほど平穏だった。
だからこそ、嫌だった。
「少々、よろしいでしょうか」
神殿側の補佐が、やわらかな顔で手を上げた。
その声に、何人かの視線がすっと集まる。
誰かが喉を鳴らす音が、嫌に大きく響いた。
「この確認文言ですが」
補佐は、エステルの手元の紙を見ながら言った。
「少し表現が硬いように思われます。場の流れに、ややそぐわないかと」
エステルの指先が、紙の端を強く押さえた。
「記録そのものに不備があるわけではありません」
補佐は笑ったまま続ける。
「ただ、このような場では、もう少し柔らかな確認の方がふさわしいかと。場の雰囲気に馴染む方へお任せした方が、より自然ではありませんか」
自然。
その言葉が落ちた瞬間、セレフィーナは椅子の肘を指先で強く叩いた。
冷え切った指先へ、爪の先から怒りが逆流する。
よくもまあ、その貼りついた笑顔で、まだ人を追い込めると思っているのだわ。
乾いた音がひとつ鳴る。
それにかぶせるように、補助記録係がペンを机へ置いた。
「確認いたします」
インク瓶の蓋が閉まるような、硬い声だった。
ペン先は紙へ向いたまま、相手の喉元を正確に狙っている。
「今のご発言は、役割変更の正式提案として記録しますか」
神殿側の補佐の笑顔が、そこでひび割れた。
「いえ、そこまで大げさな話では」
「正式提案でないのであれば、個人的所見として付記いたします」
声は変わらない。
「役割変更としては扱いません。よろしいですか」
補佐はすぐに答えなかった。
笑みの端だけが、わずかに硬い。
そこで学園側の年長者が、少しだけ強い声を出した。
「しかし、実際に場へ馴染んでいない印象はあるでしょう」
今度はエステルを見ている。
「ヴァレニエ嬢、あなたもお感じになるのではありませんか。今日の空気には、少々硬すぎると」
本人の口から退きを言わせに来た。
セレフィーナは立ち上がらない。
視線だけを、王家側の席へ滑らせる。
ルシアンは肘掛けに置いた手を動かしていなかった。
ただ、目だけがまっすぐ神殿側へ向いている。
そこで逸らさないなら、それでいい。
エステルは黙った。
紙を持つ指の節が、白くなる。
会場のどこかで、誰かが咳払いを飲み込んだ。
「続けられます」
短かった。
けれど、十分だった。
「記録に支障はありません」
エステルはもう一度、はっきり言う。
「役割変更も望みません」
神殿側の補佐の笑顔が、今度はきちんと乾いた。
学園側の年長者も、すぐには次を継げない。
その沈黙へ、別の婦人がやわらかな声を差し入れた。
「もちろん、無理にというわけではありませんのよ」
視線はリリアへ向いている。
「ただ、セヴラン嬢のような方が一歩前へ出てくだされば、皆も安心するのではと思いまして」
ゆっくり首を傾ける。
「こういう場は、空気を和らげる方がいらっしゃると違いますでしょう」
セレフィーナの耳の奥で、細い耳鳴りが鳴った。
まだやるのね。
その綺麗事、今日はどこまで持つのかしら。
リリアの指先が、袖口をぎゅっと掴む。
ミレイアは、リリアが視線を落とした先へ自分の顔が入る位置へ滑り込んだ。
「急がなくて大丈夫です」
小さな声だった。
それでも、針みたいにまっすぐ届いた。
リリアはその一言を受けて、婦人の方を見た。
「……私が受けるかどうかは、私が決めます」
震えていた。
だが、逸らさない。
婦人の笑みが、一瞬だけ止まる。
「もちろんですわ」
整え直したが、遅れた。
「ただ、わたくしたちは場のために」
「でしたら」
ミレイアが静かに被せた。
「今のご提案も、記録へ入れてください」
婦人の顔が、ほんの少しだけこわばる。
「“場のため”という言葉で、誰に何を求めたのか。あとで曖昧にならないように」
その言い方は丁寧だった。
丁寧なくせに、逃がさない。
婦人は返事に詰まった。
その横で、補助記録係のペンが走る。
インクが紙を削る音が、処刑台の露払いみたいによく響いた。
エステルは紙を握ったまま、前を向いている。
リリアの瞳も、震えながら逸れない。
ミレイアはその少し前で、誰の都合でも下がらせない顔をしていた。
ノアは席の端で、ほとんど愉快そうに目を細めている。
セレフィーナは、そこでようやく息を吐いた。
いい。
そのままよ。
神殿側の席を見る。
貼りついた笑顔の端が、もう少しで剥がれそうだ。
「あら」
セレフィーナは、よく通るが穏やかな声で言った。
「言い淀むなんて。記録に残るのがそんなにお嫌?」
何人かの視線がこちらを向く。
「でしたら、わたくしが代わりに整理して差し上げましょうか。“自然”というお言葉で、誰をどかして、誰を前へ出したかったのか」
神殿側の補佐の顔から、ついに余裕が消えた。
それで十分だった。
もっと苦い顔を見せてちょうだい。
こっちはまだ、始めたばかりなのだから。




