第53話 綺麗なだけの形はいらない
机の上は、忌々しいほど整った書類で埋まっていた。
役職の選定基準、過去の議事録、帳簿の写し、儀礼で使われる定型文。
どの紙もきちんと揃えられ、どの文章も礼儀正しい。反対される前提など最初からない顔をしている。
セレフィーナは、そのいちばん上にあった議事録の控えを指先で弾いた。
「止めるだけでは足りないわね」
向かいで紙を読んでいたエステルが顔を上げる。窓際ではノアが新しい書類束の紐を解いていた。
「ええ」
ノアが言った。
「一回止めても、次は文言を変えてきます」
「でしょうね」
セレフィーナは薄く笑った。
「だったら今度は、やりにくくしてやるしかない」
そう言って、彼女は目の前の紙を手早く分け始めた。
右へ、左へ、中央へ。迷いはない。
「最優先は議事録」
一枚を引き抜く。
「本人の辞退と、周囲からの打診。これを同じ欄に入れている限り、また“本人の意向により調整済み”が出来上がる」
次の束に触れる。
「その次が役職選定基準。全面改定は後でもいいけれど、曖昧な評価語を放っておくのは危ない」
帳簿の束を軽く叩く。
「地方負担は公開前提。儀礼文言は、その次……と言いたいけれど、後回しにしたら面倒ね」
エステルはもう手元の紙へ印を書き込み始めていた。
「議事録は、欄を増やすだけでは足りません」
「そう」
「署名の位置も変えた方がよいです」
セレフィーナが眉を上げる。
「そこまでやるの?」
「これくらいしないと隙を突かれます」
エステルは紙をこちらへ向けた。
「今の様式だと、最後に本人の名だけが残ります。途中で何があっても、署名があれば“了承済み”に見せられます」
指先で空欄を示す。
「本人確認欄は、意思記載の直後へ移すべきです。辞退なのか、打診なのか、保留なのか。そこへ署名が付く形なら、勝手にまとめにくい」
「嫌がられるわよ」
「ええ」
エステルは淡々と答えた。
「だから必要です」
ノアが横から覗き込み、小さく鼻で笑った。
「これ、通ったらだいぶ嫌がられますよ」
「空気で済ませたい人たちほど、でしょうね」
セレフィーナは答えた。
空気で済ませたい。
その一言に、胃のあたりがむかついた。
善意という名の薄い膜で包めば、どんな強制でも飲ませられる。
やわらかい言い回しにしておけば、誰が押したのかも、誰が押し出されたのかも、あとからぼやかせる。
エステルたちは、ずっとその手口で追い詰められてきたのだ。
セレフィーナは紙束を打ち揃えた。
角が机に当たって、乾いた音が鳴る。
「見た目だけ整っていればいいなら、簡単なのよね」
低く言う。
「誰も傷ついていない顔だけ作ればいいんだから」
窓から差し込む夕方の光が、机の上の白い紙をやけにきつく照らしていた。誰もすぐには口を挟まない。エステルが紙を握り直す、かすかな衣擦れの音だけが聞こえる。
「でも、そんなのはいらない」
今度は、はっきり言い切った。
エステルが新しい用紙を引き寄せる。
「評価語も、最低限の補足が必要です」
さっきよりもペンが速い。
「協調性、相応しさ、柔軟さ、場への配慮。このままだと何にでも使えます」
「補足、というと?」
「印象ではなく行動に落とします」
さらさらと書きつける。
「会議日程の遵守、必要書類の期限内提出、発言機会の妨害がないこと。そうでないと、また“言い方が硬い”“場を重くした”で処理されます」
セレフィーナはその紙を覗き込み、思わず笑った。
「あなた、本当に容赦がないわね」
「曖昧にしておく方が容赦がないと思います」
エステルは顔を上げなかった。
「残る言葉は、あとで必ず使われますから」
そこへ扉が軽く叩かれた。
「入って」
ミレイアが顔を出す。腕には神殿側から回った準備文書の控えを抱えていた。
「お邪魔でしょうか」
「ちょうどいいところよ」
セレフィーナが席を勧める。
「何を持ってきたの」
「“前に立つ役への配慮事項”です」
ミレイアは苦い顔をした。
「立ち位置の印象、場との調和、笑顔の見え方……そういうものばかりでした」
ノアが横から見て、すぐに眉を寄せる。
「本人の意思は?」
「ほとんどありません」
ミレイアは答える。
「どう置けば綺麗に見えるか、そればかりです」
セレフィーナは文書を受け取り、ざっと目を走らせた。
予想どおりだった。
前に立つ人の負担を軽くするためではない。どう立たせれば“収まりがいいか”を整えるための紙だ。
「これも直す」
即座に言う。
「“印象”の前に、“本人が役を受ける意思を確認したか”を入れる」
「それから」
ミレイアが少しだけ身を乗り出した。
「辞退が不誠実に見えない文言も必要です」
声にためらいは少なかった。
「断ること自体が、すぐ場を乱すみたいに読まれない形にしたいんです」
エステルがペンを止めて、ミレイアを見る。
「必要ですね」
短く言う。
「現状は、受ける前提でしか書かれていません」
「はい」
ミレイアは頷いた。
「だから“嫌だ”より先に、“断ったら悪いかも”を考えてしまう」
一度息を整える。
「立ちたくない場所に立たなくても悪くない。そこが最初から見える形にしたいです」
セレフィーナは、その言葉を聞いて修正案の束に手を置いた。
綺麗な紙だ。
だったら、正論で汚してやればいい。
「入れましょう」
彼女は言った。
「辞退は不誠実ではない。役の受諾は本人の意思確認が前提。そこを文頭へ持ってくる」
「はい」
ミレイアの返事は強かった。
ノアが椅子にもたれたまま言う。
「かなり嫌われますよ」
「好かれるためにやっていないもの」
セレフィーナは切り返した。
「“そこまでしなくても場は回る”と言ってくるでしょうね」
「言わせればいいわ」
セレフィーナはペンを取る。
「今まで回っていたのは、誰かが黙って飲み込んでいたからでしょうに」
彼女は修正案の束を自分の前へ引き寄せた。
「綺麗に見えるだけの形はいらないわ」
今度は全員へ向けて言う。
「誰かを静かに押しのけなくても回る形が必要なの」
夕日が紙の端を赤く染める。
その中で、エステルの横顔だけが妙にはっきり見えた。さっきまで沈黙の方へ向かっていた人の顔ではない。獲物を逃がさない実務家の顔だった。
セレフィーナは一枚目を取る。
「まずは議事録」
次に別の束へ手を伸ばす。
「その次が選定基準。地方負担は侯爵家の名で押さえる。儀礼文言は先に叩く」
「順番、逆では?」
ノアが聞く。
「逆でいいの」
セレフィーナはペン先を紙へ落とした。
「面倒なものほど、先に形にしないと“今はそこまでしなくても”が始まるもの」
ペン先が紙を削る音が、やけに鋭く響いた。
「善意で人を殺そうとするなら、こちらは正論で首を絞めるだけ。……さあ、誰からこの『改善案』を突きつけてやろうかしら。」




