第54話 王子の署名
王家の小会議室は、外の春めいた空気が嘘のように静かだった。
厚い扉が閉まると、廊下の音はほとんど消える。高い窓から光は入るのに、部屋の奥は冷えたままだ。磨かれた机の上には書類が何枚も重ねられていたが、ルシアンの目には、その一行しか入ってこなかった。
本人確認手順の厳格化。
たったそれだけの文言だ。
だが、それが通れば、もう「空気」で人を動かすことはできなくなる。
ルシアンはその一文を、指先でなぞった。
「殿下」
向かいにいた年長の近臣が口を開く。耳障りなほど滑らかな声だった。長いあいだ、王家の席で波風を立てずに諫めてきた人間の声だとわかる。
「お考え直しの余地はございませんか」
ルシアンは顔を上げる。
部屋には近臣のほか、実務補佐が一人、書記役が一人。皆、落ち着いていて、礼儀正しく、こちらが感情で動くのを待っているような顔をしていた。
「どの点を」
そう問うと、近臣は一拍だけ間を置いた。
「波風です」
率直だった。
「この案に殿下のお名を添えれば、学園も神殿も黙ってはおりません。いま王家が前へ出れば、小さな調整にまで王子自ら介入したと受け取られましょう」
実務補佐も続ける。
「内容を理解できないわけではありません」
やわらかい言い方だった。
「ですが、今この時期に出せば、“先日の件に引かれた見直し”と見られます。急ぐ理由があるようにも映る」
少しだけ首を傾ける。
「今は、動かすより落ち着かせる方が得策ではありませんか」
得策。
その言葉が、机の上のインクの匂いより濃く残った。
楽なのだ。
名を出さなければ済む。
文言を少しやわらげて、「今後の検討事項」に逃がしてしまえば、それで収まる。神殿の顔も立つ。学園も感謝する。貴族たちも、そこまでしなくてよかったと息をつくだろう。
胃のあたりが、じり、と焼けた。
「制度は、一時の感情で揺らすものではございません」
近臣が続ける。
「殿下のお立場なら、なおさらです」
ルシアンは返事をしなかった。
正しそうな声だった。
腹が立つほど、整っていた。
あの夜のことが、急に焼けるように蘇る。
音楽がうるさかった。
照明は白々しいほど明るかった。
その中で、セレフィーナだけが静かに頭を下げていた。何も言わず、その場を壊さないための顔で。あの首筋の白さだけが、今になって妙に目に刺さる。
自分は、あの時も決めなかった。
決めないまま、周囲に決めさせた。
支える人がいて当然のように扱い、押し出される人の息苦しさにも気づかず、わからなかった顔で、都合のよい形に乗った。
近臣がまた呼ぶ。
「殿下」
ルシアンは修正案から目を離さなかった。
「これは」
低く言う。
「責任の所在を暴くための刃だ」
近臣の眉がわずかに動いた。
「殿下、それでは」
「やさしい顔で人を動かしてきたから、こうなった」
ルシアンは続けた。
「誰の申し出かも、誰の都合かも、どこからが本人の意思かも曖昧なまま進める。その形を残しておいて、“得策”なんて言葉で逃げるつもりはない」
実務補佐が口を開きかける。
ルシアンは、その前にペンを取った。
細い軸なのに、ひどく重い。
指先の冷えとは別に、手のひらにじっとり汗がにじんでいる。
書記役が紙をめくる音が、やけに近く聞こえた。
喉が乾く。
「殿下、今ならまだ」
近臣の声が飛ぶ。
ルシアンは、ようやく顔を上げた。
「……遅すぎた」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
「それはわかっている」
近臣が息を止める。
「でも、ここでまた“得策”なんて言葉で逃げる自分を」
ルシアンは、ペンを握り直した。
「僕はもう、一生許せそうにないんだ」
その言葉は綺麗ではなかった。
綺麗に整える気にもなれなかった。
ペン先を紙に落とす。
最初の一画で、インクが少し濃くにじむ。
王族らしい、迷いのない署名にしようとしたのに、ほんのわずかに手が震えたのだとわかった。その滲みが、ひどく人目につく気がした。だが、いまはそれでよかった。
止めない。
ルシアンは自分の名を書いた。
王子としての名を。
曖昧な負担を、誰か一人へ押しつける運用を容認しない。その一文の下へ。
書き終えても、すぐにはペンを置けなかった。
胃のあたりがまだ熱い。
喉はひどく渇いている。
戻れない場所へ足を踏み出したのだと、体の方が先に知っていた。
かり、と書記役のペンが走る。
その音で、ようやく部屋が動き出した。
近臣は何も言わない。
いや、言えないのだろう。
いま署名したのは、若さや勢いではなく、王子としての意思表示だからだ。
ルシアンはまだ湿っている署名を見下ろした。
「いまさら“知らなかった”では済まない」
低く言う。
「ここで曖昧な方へ戻れば、僕は自分で自分を軽蔑する」
誰も反論しなかった。
窓から入る光が、乾ききらないインクを鈍く光らせている。完璧ではない。少しにじんだその名は、取り返しのつかない線に見えた。
それでいい、とルシアンは思った。
学園は顔をしかめるだろう。
神殿は言葉を選び直すだろう。
貴族たちも、王子がそこまでやるのかとざわつくはずだ。
それでいい。
黙っていれば褒められたはずの場を、自分で壊したのだ。
なら次は、その壊れ方を最後まで見届ける責任がある。
明日、この一筆がどれだけの顔を曇らせるのか。
それを思うと、胸の奥でようやく何かが前を向いた。
いい顔をして迎えられる必要はない。
次は、どんな顔でこちらに来るのか見せてもらおう。




