第50話 あなたも主役にならなくていい
神殿に近い準備室は、明るくて、息が詰まった。
白い壁に花が沿い、磨かれた床には窓の光が薄く伸びている。香油の匂いが少し甘すぎて、衣装の襟元まできゅうと締まっている気がした。
「リリア様が前にいてくだされば、場が整いますわ」
婦人の声はやわらかい。
やわらかいまま、逃げ道だけを塞いでくる。
リリアは笑っていた。けれど、その笑みは口元に貼りついているだけで、頬には色がなかった。胸のあたりで呼吸が引っかかっているのが、少し離れた場所からでも分かる。
ミレイアの足が、勝手に前へ出た。
「少し、よろしいですか」
婦人たちはにこやかに頷いた。
その視線を背に、ミレイアはリリアを準備室の脇へ連れ出す。
人の気配が少し遠くなる。壁際の長椅子に腰を下ろすと、リリアは膝の上で指を組み直した。爪の先が白くなるほど力が入っている。
「前に立つのは、お好きですか」
リリアはすぐには答えなかった。
喉の奥で何かをのみ込んでから、かすかに首を振る。
「……得意では、ありません」
「端で動く方が落ち着きますか」
「はい」
そこまでは、すんなり出た。
その先で、言葉が止まる。
ミレイアは急かさなかった。
待っているあいだ、遠くで花器の触れ合う小さな音がした。
「……皆さんが」
ようやく、リリアが口を開く。
「もう決まったことみたいに笑うんです」
視線は自分の指先に落ちたままだった。
「私が断ったら、その笑顔を壊してしまう気がして……」
そこで声が細くなる。
「こわいんです」
その一言が、ミレイアの喉の奥まで刺さった。
あの時、誰かに言ってほしかった言葉が、その痛みごとせり上がってくる。
ミレイアはそっと手を伸ばした。
握り込むのではなく、逃げなくていいと伝えるためだけの軽さで、リリアの指先に触れる。
「リリアさん」
顔を上げたリリアの目が、少し揺れた。
「主役にならなくていいんです」
ミレイアはゆっくり言った。
「立ちたくない場所に、立たなくてもいい。皆のために前へ出るのは、その人が出たい時だけでいいんです」
触れた指先がぴくりと震える。
「やさしそうだから、とか。断らなさそうだから、とか。そんな理由で前へ押し出されなくていい」
ミレイアは、今度は迷わなかった。
「嫌なら、嫌だと言っていいんです」
リリアの肩が小さく、けれどはっきり震えた。
唇が開いて、閉じる。もう一度開く。
「……っ、嫌、です」
絞り出すみたいな声だった。
「期待に応えたくないわけじゃないんです。でも、あそこに立つって思うと……息が、できなくなるんです」
目元が熱を持ったように赤くなる。
「そんなこと、言っちゃいけないと思っていました」
「言っていいんですよ」
ミレイアは手を離さなかった。
「たとえ、少し場が止まっても。誰かが困った顔をしても。あなたが苦しくていい理由にはなりません」
リリアは返事をしなかった。
ただ、冷えていた指先がほんの少しだけ動いて、ミレイアの指を弱く握り返す。
遠くから、準備を促す声がした。
リリアはびくりとしたあと、その方を見た。すぐには立たない。小さく息を吸って、吐いて、それからもう一度だけミレイアを見る。
「……すぐには、うまく言えないかもしれません」
「ええ」
「でも、少し考えたいって……それくらいなら、言ってみます」
ミレイアは何も言わず、リリアが自分の足で立ち上がるのをただ見つめていた。
リリアは立ち上がり、乱れた髪を耳へかけた。
さっきの笑みは戻っていない。代わりに、靴底が床を踏む音が、小さくひとつ鳴った。
その手が離れる前に、もう一度だけ、ミレイアの指先をきゅっと握った。




