第43話 拍手のない見直し
王都屋敷の会議室は、その日、朝から紙で埋まっていた。
学園の選定基準、儀礼接続の文書、費用帳簿、議事録、控え。
どれも静かで、整っていて、一見すればただの事務仕事にしか見えない。
けれどセレフィーナには、こういう机の上の方が、舞踏会の大広間よりよほど性質が悪く見えた。
彼女は文書を一枚引き寄せるなり、赤線を走らせた。
「……『柔軟さ』と『相応しさ』」
赤鉛筆の先が、紙の上で短く鳴る。
「この二語だけで、何人舞台から落としたのかしらね。言葉じゃないわ。首輪よ、こんなもの」
向かいのノアが覗き込み、喉の奥で笑った。
「朝から容赦がない」
「今さら優しくする相手でもないもの」
別の議事録を開く。
余白に残った古い一文を、セレフィーナは爪先で弾いた。
「三年前の秋、音楽会の補佐役から外された子爵令嬢。理由は?」
「“協調性に難あり”」
ノアは即答した。
「記録された失敗は、ほぼなし」
「でしょうね」
セレフィーナは鼻で笑う。
「失敗がなくても使える言葉だもの。便利な首輪だわ」
「便利ですね。曖昧なまま、人だけはちゃんと締まる」
「なら今度は、締める側の首に札を下げさせる」
机の向こうで、エステルが帳票を並べ替えていた。紙の角はいつもどおり揃っているのに、指先が少しだけ強く紙を押さえている。
セレフィーナは紙束を分けた。
「すぐ叩きつけるもの。まだ伏せるもの。……それと、あいつらが一番嫌がる場面で突き出す毒」
「分類名がもう穏便じゃないですね」
「穏便な運営の結果がこの紙でしょう」
エステルが一枚差し出す。
「評価欄です」
「見せて」
「このままでは、事実と陰口が同じ場所に残ります」
声は落ち着いていた。だが、紙を持つ指の節が少し白い。
「不備の記録と、“場を硬くする”のような感覚語が並んでしまう。後から都合のいい方だけ拾われます」
セレフィーナは頷いた。
「なら、所見を書いた人間の名前を必ず残す」
紙を指で叩く。
「陰で人を削るのが好きな連中に、署名入りでやらせるのよ。途端にペンが重くなるわ」
「所見欄ごと消した方が早いのでは?」
ノアが言う。
「消したら別紙へ逃げるだけ。逃げ道から先に埋めるの」
エステルが小さく息をのんだ。
「……そうするのですね」
「何を?」
「言葉を、です」
彼女は慎重に続けた。
「私はずっと、“危険です”と言って終わっていました」
「今日は終わらせないわ」
セレフィーナは即答する。
「危険だと見えたなら、次は誰が困る形にするかまで進めるのよ」
ノアが書類を持ち上げた。
「つまり、これ全部やるんですね」
「ええ」
セレフィーナは視線を上げる。
「あいつらの大好きな曖昧な逃げ道を、事務的に埋め立てるの。費用も評価も推薦も、甘い汁を吸ってきた連中ごと一枚の紙に引きずり出す」
「嫌がるでしょうねえ」
「その顔が見たいの」
エステルが次の紙を差し出した。
「“臨時”も、そのまま通してはいけません」
「いいところに気づくわね」
「気づいていました。ずっと」
「そうだったわね」
セレフィーナは短く書き込む。
「理由のない“臨時”は、ただの穴よ。塞ぐわ」
「かなり効きますね」
ノアが笑う。
「今までふわっと飲み込ませてきたものが、急に歯に引っかかる」
控えめなノックがした。
「入って」
リズに続いて、ミレイアが入ってくる。抱えている写しの束は厚く、指先にうっすら紙の粉がついていた。席につくと、自分の手を一度きつく握り、それから紙を抜き出す。
「お邪魔でしょうか」
「いいえ。何か掴んだのね」
セレフィーナが言うと、ミレイアは頷いた。
「昨年の神殿の祝辞を、控えまで全部見直しました」
少し掠れた声だった。
「一つだけ、どうしても引っかかる言い回しがあって」
彼女は一文を指差した。
「“祝福にふさわしい落ち着き”です」
その一語を口にする時だけ、指先がわずかに震えた。
「この“ふさわしい”だけ、妙に冷たいんです。句読点の打ち方も、祝辞にしては変で……人を誉めるための言葉じゃなくて、枠にはめる時の言い方に見える」
「誰の文書?」
ノアが問う。
「ラドフォード書記司祭の名で回ってきた祝辞でした」
ミレイアは急いで続ける。
「断定はできません。ただ、この人の書く“相応しさ”だけ、少し血の匂いがします」
ノアが紙を受け取り、さっきまで指で遊ばせていたペンを止めた。
「……なるほど」
低い声だった。
「それは嫌な違和感ですね。偶然で済ませるには癖が強い。ラドフォード本人か、その周辺が文言を流している筋はあります」
「やっぱり」
「ええ。証拠には遠い。でも、掘る価値は十分ある」
セレフィーナはミレイアを見た。
「よくここまで漁ったわね」
「目が痛いです」
ミレイアは正直に言った。
「でも、見過ごしたくなかったので」
「それで十分よ」
ノアが修正案の束を軽く揺らす。
「これ、かなり効きます」
「効かせるわ」
セレフィーナは答える。
「向こうはまた穏便な顔で止めに来るでしょうけど」
「静かに手を引く相手じゃありません」
「知っているわ」
セレフィーナは赤線の入った紙をそろえた。
「見直しはする。でも、机の上で始めただけで終わらせる気はない」
ノアが、そこで封筒を一枚取り出した。
セレフィーナはそれを見て、すぐに目を細める。
「……広報官室に流すつもりね」
「おや」
ノアが笑う。
「もうバレてましたか。先ほど“誤配”を済ませてきたところです」
「やっぱり」
セレフィーナは封筒を受け取り、重みを確かめるように指先で叩いた。
「王家の広報官室。情報の扱いが雑で、しかも噂好き」
「午前のうちに滑り込ませれば、午後には王都中が“選定基準がずいぶん曖昧らしい”って話で持ち切りでしょうね」
「茶会の主役たちが、自分たちの“相応しさ”が笑い種になっていると知るわけね」
「ええ。穏便な運営の予定が、ずいぶん賑やかになる」
セレフィーナは薄く笑った。
「いいわ。あの曖昧な盾、ただの飾り板だと教えてあげましょう」
窓の外で、王都の鐘が低く鳴った。




