第42話 地方が払う見えない代金
追加の帳簿が届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
王都屋敷の会議室へ運び込まれた木箱は、見た目こそ地味だったが、蓋を開けた瞬間に空気が変わった。
セレフィーナは上に載っていた帳簿を開き、二頁目でぴたりと手を止める。
「……何、これ」
指先が押さえたのは、たった一行だった。
警備補助。
名前だけはおとなしい。
だが付いている額は、おとなしくない。地方騎士を一年まわすのに近い金が、祝賀一日の補助として滑り込んでいる。
喉の奥が、ひやりと冷えた。
向かいのノアが帳簿を覗き込み、紙の端を軽く弾く。
「北の関所じゃ、この不足のせいで騎士が自前の毛布を持ち込んでるそうですよ」
「……笑えないわね」
「ええ。王都では飾り布が増えて、向こうでは毛布が擦り切れる」
セレフィーナは返事の代わりに頁をめくった。名目は違っても、数字の流れは同じだ。祝賀の周りを綺麗な言葉で飾りながら、外へ外へと金を押し出している。
扉が叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのはエステルだった。灰青の簡素なドレスのまま、抱えてきた資料を卓へ置く。紙の角はきっちり揃っているのに、指先にはうっすらとインクが残っていた。急いで書き写してきたのだろう。
「学園側原本から、関連分だけ抜き出しました」
一礼すると、すぐに一枚を開く。
「昨年まで中央処理だった輸送補填が、今年は地方協力の名目へ振り替えられています。こちらです」
細い指が数字の列を迷いなく辿る。
「名目は違いますが、増えている額はほぼ同じです。しかも臨時扱いになっていますが、儀礼接続のある年ごとに同じ増分が出ています」
「臨時じゃないわね」
「はい。最初から見込んでいた負担です」
セレフィーナは帳簿を閉じずに言った。
「これだけの金があれば、水路を直して、村の冬支度を遅らせずに済むのに」
その時だった。資料を運んできた学園側の補佐役が、困ったように笑った。
「もちろん数字は大事です。ですが、祝賀前ですし……そこまで細かく言わなくても。みんなで気持ちよく進める方が」
本気で場を丸く収めたいと思っている顔だった。
「帳簿の話で空気を重くするのは、少し違うのではありませんか」
エステルはすぐに振り返った。
「穴の空いたバケツで水を運ぶのが、貴方の言う“気持ちよく”ですか?」
部屋が静まる。
補佐役は目を瞬かせた。怒鳴られたわけではない。ただ、曖昧な善意だけを一刀で切り落とされたのだと、自分でもわかったらしい。
「い、いや……そこまで言わなくても」
「不足を不足のまま運用し、後から地方へ流す方が、よほど場を悪くします」
エステルは声を荒げない。
「祝賀の空気は帳簿を埋めません」
「でも、言い方が少し」
「数字に対してですか?」
今度こそ、相手は黙った。
ノアが喉の奥で小さく笑った。単なる面白がりではない。自分ならもっと上手く嘘を混ぜる。けれど、その嘘のつけなさこそ、いまこの場でいちばん厄介で、いちばん必要な火種だと見抜いた顔だった。
セレフィーナは黙って帳簿の角を押さえた。紙が少し潰れる。
胸がすく。と同時に、これを「きつい」の一言で片づけてきた連中の顔を思うと、指先に力が入った。
リズが静かに茶器を置く。
「王都の祝賀のために」
小さな声だった。
「地方の冬支度が遅れるのですね」
セレフィーナは茶器を受け取ったが、ひと口飲んでも味はしなかった。
「エステル」
顔を上げる。
「あなた、前から気づいていたのね」
「はい」
「報告は」
「何度か」
エステルは平坦に答える。
「ただ、祝賀前に細かすぎるとか、そこまで問題にするほどではないとか。そのような返答が多く」
そこでほんの一拍だけ置いた。
「言い方がきつい、とも」
「でしょうね」
ノアが机に肘をつく。
「あなたは正しい上に、相手の逃げ道まで塞ぐ」
「逃げ道は必要ですか?」
「王都では好まれます。責任も金も、ふわっと流したいので」
セレフィーナは帳簿を閉じた。乾いた音が会議室によく響く。
「エステル、その“バケツ”の例え、気に入ったわ」
彼女はノアへ視線を向けた。
「この帳簿、会計監督官室に置いても埋もれるだけね」
「ええ。上手に埋めてくれるでしょう」
「なら、もっと目につく場所へ置く」
ノアの目が細くなる。
「どちらへ?」
「陛下の机。できれば朝一番で」
セレフィーナは閉じた帳簿を指先で叩いた。
「王都の祝賀の灯を、領民の薪で燃やしていると、直接見ていただきましょう」
エステルが一瞬だけ目を見開いた。
リズは茶器の持ち手にそっと指を添え直す。
ノアだけが、すぐには頷かなかった。
「正気ですか」
「ええ」
「陛下宛ての誤配なんて、うまく届いても終わりませんよ。明日の茶会にまで顔を出したら、追い出されて終わりです」
「だから、追い出せない手土産を持っていくのよ」
セレフィーナは招待状の写しを引き寄せ、その上に帳簿を重ねた。
「祝賀前に業務を軽くする、ですって?」
薄く笑う。
「その場で、この数字を読み上げてあげればいい。誰の顔が青くなるか、見ものだわ」
ノアはそこでようやく肩をすくめた。
「……本当に、やる気なんですね」
「今さら確認するの?」
「いいえ。段取りを変えるだけです」
彼は帳簿を受け取り、必要な箇所へ付箋を挟み始めた。
「陛下宛ての写しは一通だけにします。多いと止められる。茶会用には別の抜粋を作る」
「ええ」
「それと、お嬢様」
「なに」
「明日はたぶん、かなり嫌われますよ」
「知っているわ」
セレフィーナはあっさり答えた。
「でも、嫌われるくらいで水路は直らないもの」
そう言って、机の上の書類をひとまとめに掴んだ。




