第101話 但し書きの中身
王都屋敷の臨時執務室に届いた常設化案は、前日までの傷を一つも残していなかった。
厚い表紙。均等な罫線。乱れのない文字。
セレフィーナは三頁目で手を止めた。
『ただし、本人への直接確認が困難な場合は、家代表者または関係者の確認をもって代替できる』
次の頁。
『ただし、緊急時または円滑な進行に支障がある場合は、責任者欄の記入を事後確認とすることができる』
さらに次。
『ただし、配慮を要する案件については、非公開記録または簡易記録とする』
赤ペンが、机の上へ置かれた。
乾いた音に、全員の視線が集まる。
ノアが草稿を引き寄せた。
「『ただし』の後だけ、署名欄がありません」
別の頁を抜く。
「こちらは記録番号が消えています。起案者名もありません」
エステルが、該当頁を受け取った。
「清書前の修正履歴は残っていますか」
「添付されていません」
ルシアン殿下が答えた。
部屋の空気が硬くなる。
セレフィーナは机の中央を空け、四枚の見出し紙を並べた。
本人意思確認。
責任者記録。
記録保持。
上位側特例。
合図を待たず、紙が動き始めた。
ミレイアが本人確認に関する頁を抜く。イレーネは緊急時と事後処理を追い、エステルは非公開記録と簡易記録の条項へ印を付ける。ルシアン殿下は、王都判断、王家案件、高位家案件の文字を拾った。
頁が机上を滑る。
羽ペンの先が、行の脇へ短い線を刻む。
「困難、と判断する者が書かれていません」
ミレイアが、一枚を持ち上げた。
『本人への直接確認が困難な場合』
本人の体調なのか。家代表の意向なのか。王都側の進行都合なのか。
判定基準も、判断者名もない。
「本人が確認を受けられない理由と、本人自身の原文が必要です」
ミレイアは余白へ記す。
『判断者名なし。本人発言記録なし』
その頁を、本人意思確認の束へ置いた。
イレーネが別の頁を抜き出す。
『緊急時には、責任者欄の記入を事後確認とすることができる』
「事後確認の期限がありません」
爪先が、「事後」の文字を押さえる。
「仮責任者名もない。事故の後で、空いている欄へ誰の名前を入れるか決められます」
エステルの手が、同じ頁へ伸びた。
「記録期限も欠けています」
セレフィーナは、頁の右上に二つの分類番号を書いた。
本人が持つ紙は一枚のまま、二つの束から参照できるよう、控え番号を付ける。
原本は、責任者記録の束へ。
記録保持の束には、同じ番号を書いた参照紙を置いた。
処理漏れの余地は残さない。
エステルが次の条項を引き寄せる。
『配慮を要する案件については、非公開記録または簡易記録とする』
「非公開指定者がありません。原本の保管先も、閲覧権限も、保存期限もありません」
ノアが末尾を確認する。
「簡易記録へ切り替わった箇所で、起案者名まで消えています」
彼は、記録番号欄の空白を爪で叩いた。
「決定者だけ追えない書式です。監査へ回せば、最初に差し戻されます」
エステルが、条項の横へ書き込む。
『閲覧制限と記録省略を分離』
『原本・記録番号・起案者名を必須とする』
記録保持の束が厚くなっていく。
ルシアン殿下は、草稿の後半から一枚を抜いた。
『高位家、王家、神殿案件については、案件の性質に応じ、別途協議により手順を調整できる』
指が「別途協議」で止まる。
「協議参加者に、本人と負担先が含まれていない」
その下には、王都側判断による簡略化条項も続いている。
「王都側の判断者名もない」
ルシアン殿下は、頁をセレフィーナへ渡した。
セレフィーナは、上位側特例の束へ原本を置き、右上に赤い管理番号を記す。
机の上には、四つの束と、それぞれを結ぶ参照紙が並び始めた。
作業が半ばを越えたところで、ノアの手が止まった。
彼は一枚の頁を、机の中央へ押し出した。
『本人負担への配慮または円滑な進行のため必要と認められる場合、家代表者による確認をもって本人確認に代え、記録を簡略化することができる』
ミレイアが、本人確認の箇所を押さえる。
エステルは簡略記録へ目を落とす。
イレーネが、行末に責任者欄がないことを確認する。
ノアは赤ペンを取り、頁上部へ太く書いた。
『全面禁止・即時削除対象』
四つの分類束すべてに、同じ管理番号を書いた参照紙を置く。
原本には赤い留め具を通し、四つの束の最上部を貫くように固定した。
どの分類から見ても、最初に目へ入る。
紛れ込ませることも、別の束へ移すこともできない。
「本人確認の代替。記録の簡略化。判断者名なし」
ノアが行を追う。
「一文で三つ抜いています」
ミレイアの指が、「本人負担への配慮」の文字で止まった。
「本人を外すための根拠に使えます」
イレーネは、余白の費用欄を見た。
「この条項を使った後に増える現場作業も、記載がありません」
エステルが記録管理欄を確認する。
「簡易記録へ変更した者の名も残りません」
ルシアン殿下は、「必要と認められる場合」の主語を探した。
どこにもない。
セレフィーナは、新しい用紙を一枚引き寄せた。
表題を書く。
『様式第七号 例外条項影響評価書』
その下へ、四つの欄を置く。
『受益対象者』
『工数・費用負担移動先』
『省略対象手順』
『責任・記録変更内容』
ノアが用紙を押さえた。
「受益対象者は、個人名または組織名。『関係各位』は禁止で」
イレーネが続ける。
「負担移動先には、追加工数、待機時間、立替費用の見込みを入れてください」
エステルは、最後の欄へ補足する。
「責任者名、原本保管先、記録番号の変更も記載対象にします」
ミレイアが、本人確認代替条項の頁を見た。
「本人意思に影響する場合は、本人発言の原文も添付してください」
セレフィーナは、用紙の末尾へ二つの署名欄を加えた。
『起案者署名』
『承認者署名』
さらに、常設化案の総則を開く。
整った本文の余白へ、赤ペンを落とした。
『例外規定を適用する場合は、様式第七号「例外条項影響評価書」の全項目を記入し、起案者および承認者が署名しなければならない』
羽ペンが紙の繊維を削る。
『未記入、署名欠落、添付資料不足の例外適用は、効力を有しない』
室内の手が止まった。
ノアが、総則の追記と全面禁止対象の頁を見比べる。
「これで、照合欄だけ外して例外条項を使うことはできません」
セレフィーナは、複合条項の原本を様式第七号の上へ重ねた。
受益対象者の欄には、王都側調整者と家代表者。
工数・費用負担移動先には、本人、当日実務担当、確認を補う家。
省略対象手順には、本人確認と通常記録。
責任・記録変更内容には、判断者名不明、起案者名省略。
四つの欄が埋まる。
赤い留め具で固定された『全面禁止・即時削除対象』の文字が、その上に残った。
その後は、会話も減った。
頁を抜く。
管理番号を書く。
四つの欄を埋める。
空欄があれば赤い斜線を引き、起案者欄へ戻す。
常設化案の各条項から、様式第七号への参照番号が伸びていく。
深夜を過ぎるころ、整っていた草稿の厚みは崩れていた。
頁の端から、赤い影響評価書が何枚も突き出している。
本人確認代替条項。
緊急時事後処理。
簡易記録。
上位側特例。
どの但し書きにも、受益対象者と負担移動先を書く赤い用紙が留められていた。
中央には、四つの束を貫いて固定された全面禁止対象の頁。
セレフィーナは、総則へ加えた一文のインクを確認した。
まだ乾いていない。
美しく清書された草稿の側面から、赤い様式第七号が何枚も鋭く突き出している。
開いたインク壺の周囲に、生臭い匂いが低くこもっていた。




