第十五話 何も知らないことを知る (2)
講義室から出ると、木製のドアがパタンと音を立てて閉じた。扉を背にしたままその場で立ち尽くす。
早くこの場を離れたいのに、足が震えて動かない。呼吸も苦しい。激しくなる動悸を抑えつけるように、両手で心臓を押さえた。
あの一瞬、私は何を考えていた?
ひょっとしたら。
ひょっとしたら唇が重なるんじゃないかって、そう期待していなかった?
恥ずかしさに顔が熱くなる。そんなことあるわけないじゃない、何を考えているの――。
チェイサーはどう思ったかしら。部屋が暗くて、表情が読み取れなかった。
でも、もし軽蔑する眼差しを私に向けていたとしたら? 思わず目をつぶってしまった私を、馬鹿な女だと心の中で嗤っていたとしたら……。
「……そんなの、やだ」
口をついて出た言葉はあまりにも幼稚で、自分が発したとはにわかには信じられない。
どうしてこんなにも動揺しているんだろう。これ以上弱音を吐かないよう口を真一文字に結ぶと、代わりに鼻の奥がつんとした。
大きく一つ息をして、気持ちを整える。
(落ち着きなさい、アメリア。チェイサーはそんな人ではない……はずよ)
ここ最近、彼に対する認識を改めたことを思い出す。妹思いで、読書嫌いで、星好きの、普通の男の人。そんな彼が、あんなことで私を軽蔑したりするはずがない。
そうよ。男の人とあんなに近づいたことがないから驚いただけ。そのせいでちょっとうろたえてしまったけど、そこまでひどい失態ではなかったわ。
少しだけ自分を取り戻した私は、足早に階段を下りた。このままここにいては、いずれ部屋を出てきたチェイサーとまた顔を合わせることになる。
今はまだ、落ち着いて彼と向き合う自信がなかった。
教授の部屋の前を横切り、渡り廊下を駆け足で通り抜ける。曲がり角に差し掛かったとき、急に目の前に人影が現れ、危うくぶつかりそうになった。
「きゃっ」
その人物は二、三歩後ろへよろけたあと、こちらを見て明らかに声のトーンを変えた。
「なんだ、アメリア様じゃないですか」
私の名を呼ぶ不機嫌そうな声。マリー・コレットが鋭い目で睨みつけていた。
見たくもなかった顔に、思わず舌打ちしそうになる。
それでも表面上は冷静を保って、真正面から彼女を見据えた。コレットは私の視線を受け流し、渡り廊下の奥をちらりと見遣った。
「アルバートに会っていたんですか?」
その言葉に、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
(アル、バート?)
コレットがチェイサーを名前で呼んでいるとは知らなかった。顔には出していないつもりだけれど、なぜか胸が締め付けられるようで苦しい。
このまま黙っていては動揺を悟られてしまいそうで、私は慎重に口を開いた。
「……なぜそう思われるんです?」
「だってこの時間に天文講義室にいるのなんて、アルバートくらいだもの」
何を当たり前のことをとでも言いたげに、コレットが器用に片眉を上げる。
私は二度目の驚きに唇を震わせた。
彼女は知っていたのね。彼がよくこの場所に来ていること。いいえ、私が知らなかっただけで、ひょっとしたら他の人なら誰もが知っていることなのかもしれない。
足元の床が崩れ落ちるような感覚がする。
本当は分かってる。この数週間で彼を知った気になる方が間違っていることは。こんなことで傷つく方がおかしい。
それでも、今受けたショックからはなかなか立ち直れそうになかった。
「ミラルダ教授へ用があっただけで、チェイサー様にはたまたま会っただけです」
とりあえず彼に会った事実を認めると、コレットは目を細め、肩まで伸びるストロベリーブロンドの髪を右手で払った。舞い上がった髪が、ゆるりと頬に沿う。
「ふーん? たまたま会っただけねぇ?」
私の言うことなどまるで信じていないかのように鼻で笑い、コレットは牙をむいた。
「レオナルド様に色目を使ってると思ったら、今度はアルバート? 将を射んと欲すればってやつですか?」
憎々し気に言い捨てるコレットを、信じられない目で見つめた。
ここでもクラークの名前を出す彼女には呆れ果てる。いったいどこまであの男に執着しているのかしら。そこまで執拗に見ているのなら、私が彼に興味がないことくらいわかりそうなものなのに。
盲目な発言は、逆に私を冷静にさせた。腕を組んで彼女を見下ろすと、可能な限り低い声を出す。
「何をおっしゃっているのか、全く意味がわかりませんわ」
きっぱりと言いきったのにも関わらず、コレットは私の言葉を一切聞かずに人差し指を突きつけた。
「わかってるのよ。そうやって敵対することでレオナルド様の気を引こうとしてるんでしょ?」
「いい加減になさい、コレット様。あまりにも失礼な態度は看過できませんわよ」
私の牽制はまるで耳に入っていないらしい。コレットはますますヒステリックに声を張り上げる。
「学園を卒業したらそうそう会えなくなるから、今のうちにアピールしようと必死なんだろうけど、レオナルド様はあんたなんて相手にしないわ」
「あらいやだわ。その言葉、そのまま返して差し上げてよ?」
「なんですって!!」
こめかみに血管を浮かべてぎりぎりと私を睨みつけるコレットを、負けじと睨み返す。しばらくの攻防のあと、彼女は前のめりになり、さらに声を張り上げた。
「四大貴族の娘なら、大人しく政治の駒になってどっかの偉いじじいにでも嫁ぎなさいよ!」
「……!」
一気に頭に血が上ったのを感じた。
とんでもない侮辱だわ。私は次期サリバン候よ? そのために私がどれだけ努力してきたかも知らないで……!
私の顔色が変わったのがわかったのか、コレットは蔑むように顔を歪ませた。
「あっはは、図星だった? ひょっとしてもう、何か打診がきてるの?」
違う。お父様はそんなことしない。私をきちんと後継者として認めてくれている。
そう言いたいのに、言葉が出てこない。もし、より好条件な人材が見つかれば、私は家を追い出されるかもしれない。
そんな考えが頭をよぎって、背筋が凍り付いた。
「私は次期サリバン家当主よ!」
精一杯叫んだけれど、コレットは顔色一つ変えなかった。精神的に自分が優位なことを確信しているらしい。
「あらそう、じゃあどっかの冴えない次男でも婿に入れるのね」
レオナルド様は長男だから婿入りは無理だしね、とつぶやき、コレットはにやりと笑った。
「ああ、残念ながらアルバートもだめよ? 彼は婿入りできない事情があるから」
頭を強く殴られたような感覚に眩暈がした。
別に、チェイサーと今後どうなるかなんて、一度も考えたことはない。ただ、私の知らない彼の事情をこの女は知っている。それだけで気が遠くなりそうだった。
まさかこの私が、一言も言い返せないなんて。ぐっとこぶしを握る。
「ちょっと綺麗な顔してるからって、それだけで人の心を掴めるだなんて思わないことね」
コレットは満足したのか、捨て台詞を吐いて去っていった。
「……分かってるわよ、そんなこと」
どんなに美しいと褒めそやされたって、何の意味もない。私には、私自身を認めて受け入れてくれる人がいない。
握りしめた鍵は、いつのまにかぬるくなっていた。
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