第11話 二人の春
小埜は休養室のベッドで仰向けに寝転がっていた。白衣が皺だらけになっているのにも気を留めず、ただ白い天井を眺めていた。
ドアが開く音がして誰かが入ってきても、小埜は動かない。
「小埜先生、こんにちは」
「…神城か。何の用だ」
身を起こした小埜は無表情だった。その原因が何なのかに気づいている神城は、明るく笑って言う。
「夕方から“Un chat noir”で卒業パーティーをやるんだけど、桐原と連絡つかなくてさ。先生知らない?」
桐原。その苗字を耳にした途端、小埜の表情が強張った。神城は目を伏せて寂しげに笑った。
「…ねえ、小埜先生。俺が話したこと覚えてる?姉ちゃんと約束したっていう話」
「約束…?」
疑問を伴う呟きに神城は続ける。
「“本当のヒーローが現れるまで未亜を守る”って約束だよ」
神城は小埜の目を見た。意思の強い瞳が小埜を試すように光る。今の小埜には、ただ見返すことしかできない。
「俺、分かっていたんだ。これから先、桐原を守れるのはあいつを一番大切に想っている奴だって」
「…あいつにはお前が――」
いるだろ。
そう言いかけた小埜を神城が断固とした口調で遮る。
「一番じゃない」
らしからぬ言葉に小埜は瞠目した。
「ぶっちゃけて言うよ。確かに桐原は大切な妹だ。でも、俺にとってあいつは一番じゃない」
神城の心の中には、もう一番がいるのだ。桐原ではない、誰かが。
待てよ
小埜は焦りを隠せない。
「じゃあ誰があいつを――」
向けられた神城の鋭い視線の持つ意味に気づかないほど鈍感な小埜ではない。
「他の男に任せてもいいの?それで先生は満足するわけ?」
腰をかけていたベッドから立ち上がった小埜は何も言わずに休養室から出る。その後を神城が追った。
「小埜先生。いや、生徒としてでなく、1人の人間としてあんたに聞くよ」
振り返る小埜に、神城は真剣な顔つきで向き合う。
「あんたはこれでいいの?」
知らず拳を握る小埜は、持て余す感情に決意を揺らがされていた。
このまま終わりにしてもいいのか
あいつをひとりにしてもいいのか
他の誰かに守らせててもいいのか
神城は無言で上着のポケットから封筒を取り出して、小埜の胸に押し付けた。
「…何だ、これ」
戸惑いながらも受け取った小埜をよそに、神城は保健室のドアに手をかける。
「それは姉ちゃんからの伝言。俺に書いたんだけど、小埜先生が読むべきだと思ったから。返さなくていいよ」
そう言って去っていった。
残された小埜は封の開いている封筒から便せんを取り出して開く。<圭へ>からで始められている手紙を目で追っていた小埜は、2枚目に差し掛かった所で保健室を飛び出した。
神城未唯は、大した奴だ
小埜は舌を巻かざるを得なかった。
そうだ。俺はあいつから逃げていたんだ。桐原は一度も俺から逃げようとしなかったのに。最後まで目を背けていた俺の為に
〈圭、私との約束を守ってくれてありがとう。
未亜を守る"本当のヒーロー”とはどんな人なのか。
鋭い圭のことだから薄々勘づいてはいるようね?
きっと圭が思っていることと私が思っていることは同じよ。
”本当のヒーロー"を選ぶのは、未亜自身。
未亜を守れるのは、未亜のことを一番大切に想ってくれる人。
けれどそれだけじゃ駄目なの。
本当に未亜を守れるのは、未亜のことを一番に想ってくれて、そして〉
あいつは自分から去ったんだ
〈あの子が一番大切に想っている人だけなんだから〉
俺を守るために
「あいつら卒業しちまったよおおおぅ!寂しいぞこんちくしょおおおぅ!!」
卒業式が行われていた第一体育館にて。後片付けをしている在校生に指示を出していた阿久津は、壇上にいる権田を見上げる。
「権田先生。いい加減にして頂けませんか。後片付けの邪魔なんですが」
「うるせぇ!ちょっとは気を遣え!」
壇上の花をむしりだす権田を、阿久津は壇上に上がって制す。
「散らかさないでください。それにお言葉ですが、卒業した生徒のほとんどは華里大学に入ります。よって彼らと顔を遇わせることは頻繁にありますよ」
権田は鼻水をたらしながら阿久津を睨む。
「少しは卒業という感動にひたらせろ!」
喚く権田を阿久津は哀れみの表情で見やっている。
そんな二人を見下ろしている人物が、上にいた。
「…何やってるんだか、タコ先は」
落下防止の壁に寄りかかって立つ未亜は、体育館に反響する権田のむせび泣きに苦笑する。笑っていたはずだったのに、涙が零れてきた。
「…やだ…もらい泣きしちゃったじゃん」
目を擦っていると、バッグの中の携帯が震えだしたことに気がつく。着信相手は、神城でも蓮実でも芹河でもなかった。
「…雪先生」
電源を切ろうとした指は、なぜかは分からないけれども違うボタンを押していた。
〈今どこにいる〉
受話器に耳をあてて聞こえた第一声。ぶっきらぼうだが、どこか吹っ切れたような清々しさを感じる。
解放されてそんなに嬉しいですか。そうですか
未亜は卑屈な気持ちになって、突き放すように応える。
「教える義務はありませんよね。どうぞ」
〈……そこから動くな。じっとしてろ〉
風を切る音が受話器越しに聞こえるということは、小埜は今走っているということだ。
駆け抜けたくなるほど爽やかな気分なんですね。そうなんですね
「忘れてって言いましたよね、どうぞ」
段々棘を増す未亜の言葉に、小埜も意地になって返す。
〈鶏でもあるまいし無茶言うな〉
走り続けているのにも関わらず、息が乱れないのは体が鍛えられているからか
思考回路が違うところに向かおうとしているのを、未亜は止めた。
「…雪隊長。質問してもいいですか、どうぞ」
〈何だ〉
隊長呼びに反応しなくなった小埜は、だいぶ未亜に感化されている。未亜が体育館の細い窓から空を見上げると雲が空を覆いつくしていた。
急に寒さを取り戻した気候に、未亜は去年のことを思い出した。
「初めて雪先生といっしょに寝た日のこと、覚えてますか?」
〈あのな、語弊がありすぎだろ。…覚えてないが、覚えてるよ〉
どちらともつかない返答にちょっと安心した。未亜の口は自然と動く。
「実はあの時、キスしたんです」
〈…は?〉
何とも間抜けな声を上げた小埜はどうやら立ち止まってしまったようだ。
「雪先生の寝顔見てたら、我慢できなくなってしちゃいました」
再び風を切る音がしだす。
「初めてのキスは、雪先生としたかったから」
小埜は何も言わない。聞こえてくるのは後片付け中の生徒の声。
「雪先生といっしょにいた時間は、一瞬一瞬がかけがえのないもので、私の人生を色鉛筆220色セット全て使って塗った絵みたいなんです」
風を切る音も聞こえなくなった。
「ねえ、雪先生」
未亜は今にも雨が降り出しそうな曇天を眺める。
「本当に最後のお願い。もう二度と、先生に迷惑は掛けないから」
ぽつりとコンクリートの床に落ちた雫は、雨ではない。
「私も鶏にはなれないけど、頑張って忘れるから」
精一杯の気持ちを込めて伝える。
「その時まで――」
ついに阿久津に連行されたのか、権田の声も遠ざかっていく。階段を上ってくる足音に未亜は気づかなかった。
「好きでいてもいいですか?」
「〈どうぞ〉」
右耳は機械を通した声。それじゃ、左耳から聞こえたのは――
振り向きかけた未亜はふわりと消毒液の微かな匂いに包まれ、背中にじんわりと温かさが伝わるのを感じていた。
「どうし、て…」
「携帯」
耳元で囁かれた低い声に身をよじると、回されている腕に力が込められた。
身動きできない。
小埜の目は、未亜の持つ携帯に向けられていた。
「権田先生と阿久津先生の声が聞こえた。阿久津先生は体育館の後片付け担当だったからな。それと権田先生の泣き声が反響して受話器越しに聞こえたことから、お前が天井に近いこの場所にいると分かった。いくら何でも、権田先生がお前の前で泣くわけないだろ」
「…さすが雪先生。名推理」
「茶化すな」
未亜は表情を曇らせて俯いた。
「…どうして、ここに来たんですか」
後ろから抱き締める格好のまま、小埜は生返事をする。
「神城が俺の所までお前を探しに来た。どうしてあいつの電話には出なかったんだ」
「…分からないの?」
震える声に、小埜は腕の拘束を緩めた。未亜は振り返って白衣を掴む。
「どうして忘れさせてくれないの?」
小埜の胸に頭を寄せた。
どうせ先生の手は私を引き離す
そう思っていたのに、まるで壊れ物を扱うように丁寧に抱き寄せられた。
「忘れなくていい」
ぎゅっと抱き締められて、予想外の状況にうろたえるばかり。
「俺はお前を忘れない」
視線を巡らすと、熱のこもった瞳とかち合う。
「俺は今まで逃げてきたんだ。お前の優しさに甘えて、騙して傷つけるようなことしかできなかった」
「雪先生は私を騙してなんかいない。先生を好きになったことが間違いだったなんて、一度も思ったことない」
非難したりしない。そんな未亜を、手の届かない存在だと思っていた。
「…お前は強い。他人を傷つけることでしか居場所を見出せなかった俺には、真っ直ぐなお前が眩しすぎて直視できなかった。離すことしかできなかった俺には、何があっても俺のそばをうろつくお前がうざったくて、でも嬉しかったんだ。道を外した俺には、お前のそばにいることは許されないと思っていた」
「関係ないよ。過去に起こったことは、私たちにはどうすることもできない。大切なのは、これからどうするかなんだから」
未亜は小埜の目を見ながら薄く微笑んだ。
「雪先生、ありがとう」
私を見つけてくれて。忘れなくていいって、私を忘れないって言ってくれて
「もう十分だから…」
階段に向かおうとした未亜の顔の前に、小埜が壁に手をついて遮る。
動きを止めた未亜。何が起こっているのか分からない。
「行くな」
切なる声が鼓動を跳ねさせる。
小埜から発せられる言葉以外、もう何も聞こえない。
耳が、麻痺してるみたい
「お前だけなんだ。誰にも必要とされなかった俺を見つけてくれて、手を差し伸べてくれて、そばにいてくれて、自分でさえも憎んでいたこの名前を好きだと言ってくれて、呼び続けてくれたのは、お前だけなんだ」
「雪先生…」
小埜の手が、未亜の頬に触れる。
温かい意味を持つ雫を拭ってやった。
「どこにも行くな。俺をひとりにするな」
お前をひとりにしたくないんだ
今まで見ない振りをしていたこの気持ちは、他でもない感情。
好きなのだと
「本当にそばにいてもいいの?本当に好きでいてもいいの?」
「ああ。そばにいていいし、好きでいてもいい」
未亜は嬉しそうにはにかんで、小埜に抱きつく。
「もうどこにも行かない。雪先生をひとりにしてあげないから」
下の方で在校生達が動きだしたのに気づいた二人は、条件反射でしゃがみ込んだ。
何だか可笑しくて、二人して笑う。
「あ…」
空を舞い落ちる白いものに声を上げると、小埜も気づいたようだ。
「雪だな」
片づけを終えた生徒達が体育館から出て行くのを柵越しに見送る未亜は、小埜の腕の中に収まっていた。
「ねえ、雪先生」
「なんだ」
「来年もこうやって、先生といられるかな?」
「さあな」
「わ、何ですかその返答」
未亜は不満そうに唇を尖らせる。
その様子を見ていた小埜は諭すように小さな頭を撫でた。
「馬鹿。嘘に決まってるだろ。来年も再来年も、ずっとお前と一緒にいるよ」
「本当?約束してくれる?」
疑わしげな顔の未亜に小埜は頷く。
「ああ。俺は約束は守るからな」
「…ありがと、雪先生」
頬を赤らめて礼を言った未亜を、なぜか面白くなさそうに小埜は見下ろす。
「桐原。俺はもうお前の先生じゃない」
「何言ってんですか。家に着くまでが卒業式、なんですよ」
「それは遠足か修学旅行だ。それに、お前一回家に帰ってるだろ」
小埜の冷静な指摘を受け、「ああそうか」と未亜は顎に手をあてて悩む体勢をとる。
「じゃあ新しいあだ名を考えないといけませんよね。スノゥなんてどうですか?あとは、ゆっきーとか」
お前の脳みそは小学生レベルか
「…もういい。“Un chat noir”とかいう店で卒業パーティーをするんだろ。皆待ってるんじゃないのか」
ため息をついて立ち上がった小埜は、手を引いて未亜を立たせた。
歩き出す小埜に対して、未亜はそこから動こうとしない。
「おい」
「…やだ。まだ離れたくない」
上目遣いで見上げてくる未亜は小動物そのものである。
惚れた弱みとはこういうことか
小埜は一人納得し、未亜の手を離して階段に向かう。
「まずは保健室の戸締りに行く。それからお前を“Un chat noir”まで送ってやる」
今日の分の仕事は片付いた。部活も無いし余程のことは起きないだろう
階段を下りていく小埜を忙しく追う足音。
「雪生さん」
ちょうど降り終えたところで未亜を振り返ると
「大好きです!」
眩しい笑顔で駆け寄ってくる。
保健室に向かう途中で、中庭を移動していた時。
「未亜」
初めて呼び捨てで名前を呼ばれた。隣に並んで歩いていた未亜は、目を丸くして小埜を見る。阿呆みたいに口を開けている姿に目を細め、
「好きだ」
迷いのない口調で想いを告げる。瞬時に未亜の頬が真っ赤になった。小埜はそんな未亜を愛おしそうに見つめ、そして空を見上げる。
希望、か
二人に訪れた春を、雪が祝福するようにひらひらと舞っていた。




