第10話 好きなのに
読んで下さってる方々、ありがとうございます。
この物語も終わりに近づいております。
2月の終わり。華里大学の入学試験や他の大学の一次試験を終えた3年生は、自由登校である。未亜は第一希望を法学部にしているため、神城とともに特別講義を受けている。
「あ、神城くんだ」
窓の外に、帰宅している神城を見つける。目で追っていると誰か知り合いでもいたのか、神城が駆けていく。前にいた女の子に声を掛け、何か話して隣同士に並んで歩いた。
「あの子は確か…芹河くんの妹の、杏璃ちゃんだ」
同じ高校に通う芹河の妹は1年生だ。
芹河くんに似てなくてすごく可愛いんだよね
「神城くんは鈍いから気づいてないだろうなぁ…」
実はこの前、偶然杏璃と廊下で会った未亜は彼女にこう聞かれた。
『…き、桐原先輩は神城先輩と付き合ってるんですか?』
顔を真っ赤にしている杏璃に、未亜は『ただの腐れ縁だから心配しないで』と笑った。杏璃の安堵した顔を目にした瞬間、神城のことが好きなのだと分かった。神城も自覚はしていないだろうが多分好意を持っている。
いいなあ。両思いなんて奇跡に近いのに
何だか家に帰る気にもなれなくて、未亜は窓際の席に腰掛けて頬杖をついた。
放課後、小埜は校内を巡回していた。
「おいお前ら、さっさと家帰って勉強しろ」
3年の教室に顔を出し、まだ残っている生徒に注意をする。
「はーい。小埜先生さよなら」
華里大学進学組だな、あいつら
他の大学を受験する生徒は二次試験に向けて勉強している。教室でお喋りを楽しんでいた男子たちは教室から出ていった。小埜は隣の9組に向かう。静かだから誰もいないと思っていたが、一人だけいた。
「…桐原か。あいつはまた何やってんだか」
窓の方に体を向けて座ったまま微動だにしない。
「まだ帰らないのか」
背後に立った小埜に驚くことなく、振り返らないまま呟く。
「放っておいて下さい。今は帰りたくない気分なんです」
「帰りたくないって…親と喧嘩でもしたのか?」
首を振った未亜に、小埜は前の席に腰掛けた。
「違うのか?じゃあ何だよ。黙ってたら分からないだろうが」
未亜はもう雪の残っていない外を見ている。
「…質問してもいいですか?」
やっと話しだしたかと思えば、質問か
小埜は軽く息をつく。
「聞いているのは俺だ。まあいい。何だよ」
先を促す小埜に、未亜は一度だけ視線を寄越して、また逸らした。
「雪先生は、誰かを好きになったことがありますか?」
窓の外を見たまま聞くのは顔を見られたくないからだ。顔を見れないのは手の震えが止まらないからだ。
「無いな」
小埜は即答した。唇を噛んだ未亜は無理やり笑う。
「ははっ、聞いた私が馬鹿でしたね。気にしないで下さい」
「待てよ。…もしかしてお前、好きな奴でもできたのか?」
確信をついた問いかけに鼓動が速まる。
「…分かりません」
そっと息を吸って、力なく答える。
「分からない?自分のことなのにか」
「だから分からないんです。客観的に考えることができなくて、混乱してるの」
半ばあてつけのように小埜に言った。
「このままの関係でいた方が良い。何も失わなくて済む。そう思うのに、それだけじゃ満足できない自分がいる」
小埜は黙って聞いている。
「私が私でいられなくなりそうで、怖い」
先生の望む私でいられない。生徒のままでいられない
「この気持ちを打ち明けたら、一番大切なものを失ってしまいそうで怖いんです」
未亜は顔を右に向けて、小埜の目を眼鏡越しに見た。
「雪先生は、もし好きになってはいけない人を好きになってしまったら、どうしますか?」
目を見張った小埜。視線を彷徨わせる。
「俺は――」
何かを言いかけて、我に帰ったように口を閉じる。
「俺は誰かを好きになることは無い」
未亜の瞳がさっと色を失くす。
「…そう、ですか。急に変なこと聞いて、すいませんでした」
複雑そうな表情の小埜は、未亜から視線を外して腕時計を見た。
「もう帰れ。これ以上暗くなると危険だ」
「…はい」
鞄を手に席を立った未亜に続いて、小埜も立ち上がる。
「さようなら、雪先生」
作り笑いを浮かべる未亜を、小埜はただ黙って見ているしかしなかった。パタパタ、と去っていく足音を聞きながら
「…ごめん」
そう呟いた。
その翌日から未亜が保健室を訪れることは無くなった。小埜と廊下ですれ違っても、軽く頭を下げて走り去る。問い詰めることはしなかった。これでいいんだと、思っていた。
卒業式の2日前。
〈約束は忘れて下さい〉
未亜から届いたメールに、小埜は返事をしなかった。
シンクに置かれている薄赤色のコップが、誰にも使われなくなったことを嘆いているように見える。そう感じるのは自分の所為だと分かっていても、どうすることもできない。
きっと、これでいいんだ。そう言い聞かせるしか出来ない自分を、情けなくも思った。
3月9日。卒業式を終えた未亜は、空っぽの引き出しを眺めていた。
終わっちゃった
鞄を机の上に置いて顔を伏せていると蓮実がやって来た。
「未亜、帰るんでしょ?途中まで一緒に行こ」
鞄から顔を上げた未亜は少しの間、視線を彷徨わせてから頷く。
「…うん、帰ろ」
学校を出る時、保健室がある方に顔を向けた。
さよなら
心の中で別れを告げ、先を歩く蓮実を追う。分かれ道にさしかかり、蓮実は手に持っている携帯を振った。
「じゃ、一旦家に帰って着替えてから“Un chat noir”に集合ね。着いたらメールするから」
「了解。また後でね」
手を振ってお互いの帰路につき、帰宅した未亜を母が出迎えた。
「お帰りなさい、未亜。これから卒業パーティーだったわよね?」
「うん。着替えて行くことになってる」
部屋に向かおうとする娘に、母は居間に来るように言った。ソファに腰掛けた未亜の前にお洒落に包装された箱を置く。その上には綺麗な絵柄の封筒。
「今朝、未唯さんから届いたの。あなたの卒業と進学のお祝いですって」
「未唯さんから?何だろう…」
箱の蓋を開けた未亜は驚きの声を上げる。中に入っていたのは白地のワンピースで、裾や襟、袖口の所に淡い水色の糸で刺繍が施されていた。その模様は雪の結晶。
「まあ。可愛らしいじゃない。雪の妖精さんみたいね」
日本ではあまり見ないデザインだと思って確かめると、なんと英国製だった。
「“Fairly tale”…。お店の名前なのかな」
神城から、未唯が去年の5月に英国で休暇を取っていたとは聞いていた。上質な生地に圧倒されていた未亜は、続いて母が箱の中から取り出したものに更に驚く。濃い藍色のフード付きポンチョなのだが、胸元のボンボンが――
「ミイラパンダのポンチョ…!?そんなのカタログに無いのに…!」
「せっかくだからこれを着て行ったらどう?写真を送ってあげたら未唯さんも喜ぶわよ」
茫然としている未亜にポンチョとワンピース、それに封筒も持たせ、母は娘を部屋に上がらせた。
制服を脱いでワンピースを着て、ポンチョを羽織った未亜は姿見の前に立ち、自分の姿を見た。
足元に目を向けると小埜から貰った靴下。
せめてもの意思表示として、卒業式には黒タイツをはいていかなかった。
私はもう大丈夫だって伝えたかったから
身につけた衣服がまるで、自分のためだけに作られたような感覚に溺れつつ、未亜は未唯からの手紙を手に取った。
未唯が華里を出てから手紙をもらったのは、ほんの数回。忙しいであろう彼女に、未亜の方から遠慮を申し出たのだ。受話器越しの未唯はただ笑って「何かあったらいつでも連絡して」と言った。未亜のためにも、これからは見守るだけにとどめておくべきだと彼女も思っていたのだろう。久し振りに目にする未唯の筆跡を追いながら、頬を緩める。
〈私達の可愛い妹、未亜へ
卒業、進学おめでとう。もう大学生になるのね。
お祝いは気に入ってくれたかしら?
直接会って渡せなかったのが残念。未亜の反応を見たかったわ。
去年の夏は、結局帰れなくてごめんなさい。
仕事が立て込んでいて休みが取れない状況で、長期休暇を取っていたこともあって抜け出せなかったの。
お正月には帰省していたんだけれど、ゴタゴタしていて会う時間が取れなかった。
それはとある人の所為でもあって…。
圭から聞いたと思うけど、去年の春、私は英国を訪れていました。
そこで私は、ある一人の男性に出会いました。
最初の印象はとにかく最悪で、ただの女タラシとしか思っていなかった。
でも彼の本当の姿を知って、何があっても前に進み続ける彼に、私は惹かれていた。
皆は私を強い人間だと思っているかもしれないけれど、本当はそうじゃない。
私は弱くて、いつも迷っている。
自分はどうするべきなのか、どう生きればいいのか。
過去に囚われて動けずにいた私に、彼は手を差し伸べてくれた。
嫌いだったなずなのに、いつの間にか彼を好きになってしまっていたの。
あなたは驚いているでしょうね。
愛を信じないと言っていた私が恋をするなんて、自分でもびっくりした。
圭に誰にも言わないでよって口止めをしていたから、内緒にしててごめんね。
実は、あなたに贈ったものは彼の知り合いが経営しているお店で特別に注文したものなの。
ミイラパンダのポンチョは私と彼がデザインしたもので、世界に1つだけ。
『君が妹のように思っている子なら、僕にとっても大切な義妹だよ』
そう言ってくれた彼はあなたの写真を見て、どんな服が似合うのかと考えてくれました。
そして私の元にお祝いの包みと写真付きの手紙が届いたの。
『この子は君にとって希望のような存在なんだろう?その想いを、僕なりに表現してみた』
添えられた写真を見て、私は泣いてしまいました。
彼と私は、冬が嫌い。
雪が降る度に悲しい記憶が蘇ってくるから。
でも、彼がデザインして出来上がったワンピースを見た瞬間、気づいたの。
春を迎えるためには、冬を乗り越えなければいけない。
雪が降らなければ、春は訪れてこない。
悲しみを乗り越えなければ、幸せは掴めないんだって。
未亜。
私達にとって、あなたは希望。
あなたが幸せでいてくれたら私も彼も、嬉しいわ。
だからお願い。
踏み出すことを恐れないで。
一歩進めば世界が変わる。
未亜ならきっと、できると信じているから。
いつか、私達とあなたの大切な人、4人で会える日を楽しみに待っています。
神城未唯より〉
枯葉が地面に落ちるように、乾いた音をたてて手紙が勉強机に置かれた。
携帯の入ったキャメル色のバッグを手に、未亜は部屋を飛び出していた。
いないかもしれない。何も言えないかもしれない
ブーツをはいた足は真っ直ぐに学校に向かう。
それでもいい。もう一度会って、伝えたい
このまま終わりにしたら、私は一生変われない
自分を大切に想ってくれている、姉と、顔も知らない兄に背中を押された。
ありがとう、未唯さん。お兄さん
飛びたつ勇気をくれて、ありがとう
私服姿で校内を走る未亜は、誰ともすれ違わなかった。保健室の前に着いて、息を整える。
プレートを見ると〈外出中〉と示されていた。卒業式の後片付けに行ってしまったのかもしれない。
半ば諦めながら、それでもドアに手をかけた。
すると
「……どうして」
目にした光景に未亜は目を見開いた。
「待ってるって約束しただろ」
背中を見せたまま応じる小埜は訪れたのが未亜だと疑っていない。
未亜は堰を切ったように泣き出す。
「だって!私…!」
振り返った小埜は未亜の手を引いてドアを閉め、涙を白衣の袖で拭う。
「泣くなよ。式の間は泣いてなかったくせに」
鼻をすすりながら未亜は震える声で呟く。
「…ごめんなさい。わがままばかり言って困らせて、迷惑しか掛けられなくて。ごめんなさい」
「お前はわざわざ謝るためにここにきたのか?」
小埜の問いに首を横に振った。
「……雪先生に出会えていなかったら今の私はなかった。生きることがこんなにも苦しくて、辛くて、悲しくて、けどこんなにも楽しいんだって知ることが出来たのは、雪先生がいてくれたからだよ」
小埜は穏やかな笑みを浮かべる。
「お前の力になれたのなら良かった。養護教諭としてお前にしてやれることは、限られていたからな」
目元に触れていた指がそっと離れていくのを、掴んで引き止める。
「違うの。そうじゃない。私は、雪先生にとっての特別になりたかった。ただの生徒なんかじゃなくて、私を1人の人間として見てほしかった」
未亜の潤んだ瞳が小埜を真っ直ぐに見上げる。
「好きなの」
小埜の表情が変わった。
「雪先生が好きです」
一番伝えたかった言葉。初めて感じた恋心を、どうしても伝えたかった。
「もう生徒じゃなくなるから、この気持ちを伝えられると思ってた。でも雪先生は私のこと何とも思ってないって知ってるから。だから、忘れて」
小埜の手を掴んでいた未亜の手が離れていく。踵を返してドアに向かう未亜を、思わず引きとめようとした。
「桐原」
「来ないで!」
鋭い制止に足を止める。未亜はドアの取っ手に手を掛け、俯く。淡い水色の雪の結晶が揺れていた。
「雪先生が、私のことを恋愛感情で好きじゃないのは分かってる」
小埜は何も言わない。違うとも、そうだとも。
先生、優し過ぎるのは罪だよ
「…だから、私の最後のわがままを聞いて」
私から言ってあげる。先生が楽になれるように。私の所為で悲しまないように
「私を忘れて」
ガラリと、ドアが開く音がした。
私、強くなるから
今回登場した、芹河妹の話は短編小説<Crazy for You>です。時期は違いますが。




