第五話
若い冒険者が帰った夜、隠し階段を降りてコアに触れた。
――DP:711
光の中に、地下二階を映す。
灰色の霧は、部屋の真ん中で膨らんでは縮んでいた。その下の揺れは、もう腰の高さに届いている。
地下一階の桃色は、天井まであと二メートル半というところまで来ていた。
板を閉じて、しばらくコアの鼓動を聞いていた。
◇
若い冒険者が次に来たのは、四日後の夕方だった。
食堂の真ん中の卓に座って、娘に酒を頼む。従者は戸口まで付き添うと、いつものように引き上げていった。
娘が杯を置く。
男が、卓の端から銀貨を一枚落とした。
銀貨は床で一度跳ねて、娘の足もとで止まる。
「拾え。駄賃だ」
娘は一瞬だけ男の顔を見た。それから膝を折って、銀貨を拾い上げる。前掛けのポケットにしまって、頭を下げた。
「ありがとうございます」
男は杯を傾けて、隣の卓の行商人に顔を向けた。
「北の街道にも、こういう宿があってな。娘がよく笑う宿だった」
「へえ。そりゃあ、どちらの」
「知りたいのか」
行商人はそれ以上は聞かずに、自分の杯に目を落とした。
俺は大部屋の戸口から、それを見ていた。食堂は、大部屋の外だ。ここからでは、床は開かない。
厨房の戸口で、主人が前掛けで手を拭いている。拭き終わっても、手を前掛けから離さなかった。
◇
夕食のあと、娘がいつものように黒パンを布に包んで持ってきてくれた。
「今日は少し多めに入れておきました。お客さんの残りですけど」
布を受け取るとき、娘の手首が見えた。赤く、指の形に跡が残っている。
娘は俺の目線に気づいて、袖を引き下ろした。
「慣れてますから」
笑って、洗い場へ戻っていく。
包みを開くと、黒パンのあいだに、干した果物が二切れ挟んであった。
◇
その夜は、従者が酒の小樽を抱えてやってきた。
いつもの麦酒ではなかった。栓を抜くと、鼻の奥を刺すような強い匂いが大部屋に広がる。若様からだと言われれば、断る客はいない。従者は男部屋を回り、仕切りの向こうの女の客にも、同じように杯を渡していった。
俺も一杯受け取って、口をつけるふりをしてから、藁の下に流した。
従者が帰ってから一刻もしないうちに、大部屋はいびきで埋まった。
奥の寝台で、男だけが起きていた。手もとに小さな火をともしては、消している。そのたびに、暗がりに男の横顔が浮かんでは沈んだ。
寝台の下で、床板がかすかに動いた。白いスライムが、女部屋のほうからこちらへ這ってきているらしい。
藁の下で、寝台の脚を指で二度叩いた。
床板のふりをしていた白い体が、奥の寝台のほうへ薄く伸びていく。
夜が更けたころ、男が戸口に向かって声を張った。
「水」
しばらくして、厨房のほうから足音がした。
手燭の明かりが、戸口に揺れる。水差しを抱えた娘が、寝台のあいだを抜けてくる。いびきのあいだに、娘の足音だけが聞こえた。
奥の寝台の前で、娘が止まった。
「お水です」
娘がかがみ込んで、枕元に水差しを置く。
その手首を、男がつかんだ。
水差しが倒れる。手燭が床に落ちて、転がる。娘の体が、寝台の上に引き倒される。声を上げかけた口を、男の手がふさいだ。
「騒ぐな」
娘の頬のすぐそばで、豆粒ほどの火がともる。
娘の体から、力が抜けた。
俺は、寝台の上で身を起こしていた。
奥の寝台の床へ、意識が伸びる。
男の膝の下で、娘の足が藁を蹴っていた。
伸ばした意識を、引き戻す。
戸口が、壊れるような音を立てて開いた。
主人だった。竈の薪を一本、握りしめている。
「離れろ」
主人は、それだけ言って踏み込んだ。
男は振り返りもしない。片手を、戸口へ払う。寝台の毛布がめくれ上がり、風が主人の体を正面から殴りつける。
熊のような体が、浮いた。
主人は戸口の脇の壁に背中から打ちつけられて、そのまま床に崩れ落ちた。握っていた薪が、床を転がっていった。
「お父さん!」
娘が男の腕の下から身をよじって、寝台から転げ落ちた。男はとっさに足首をつかんだが、指は娘の肌の上をつるりと滑った。寝台のまわりの床に、白いものが薄く広がっていた。
娘は床を這って戸口まで逃れ、父親にしがみついた。
男は空をつかんだ自分の手を見下ろして、舌打ちをした。寝台から降りる。握り直した拳の隙間から、赤い明かりが漏れはじめる。
男は拳を開き、手のひらの火を戸口の二人へ向けたまま歩き出した。
奥の寝台から戸口までは、寝台三つ分ある。
一つ目の寝台を過ぎる。
火が、ひと回り太くなる。
二つ目の寝台を過ぎたところで、俺は男の足もとの床を開いた。
踏み出した足が、空を踏む。
床板が、男の幅だけ口を開けていた。男の体はまっすぐに落ちていき、小さな火が細い線を引いて、闇の底へ吸い込まれた。
床が閉じた。
あとには、いつもの床板があるだけだった。いびきは、一度も途切れていなかった。
戸口で、娘がこちらを見ていた。
父親の頭を抱えたまま、男が消えた床を見る。それから、俺を見る。
「……いまの」
声は、そこで途切れた。
主人の胸は、ゆっくりと上下していた。息はある。
「厨房へ。寝かせてあげてください」
娘はしばらく動かなかった。それから小さくうなずいて、父親の腕を自分の肩に回した。大きな体を半ば引きずるようにして、戸口を出ていった。
二人の足音が遠ざかるのを待って、部屋の隅の床板を踏む。板が沈んで、石の階段が現れる。
足をかけたところで、足首に白いものが絡んできた。指で剥がして、床に戻す。白い体はしばらくそこに留まっていたが、やがて女部屋のほうへ這っていった。
◇
コアに触れて、地下一階を映した。
男は、桃色の水面に浮いていた。
沈んでいない。顔のまわりだけ、桃色が丸くへこんでいる。見えない渦が男を包んで、水面を押し返していた。風だ。
男が口を開けて、何か怒鳴る。音はない。喉に手をやって、もう一度怒鳴る。やはり、何も聞こえない。
男の顔から、笑いが消えた。
壁へ向かって泳ごうとする。手足をかくたびに、体は桃色の中で滑って、元の場所へ戻ってくる。足は、底に届かない。
男が長剣を抜く。壁に突き立てる。切っ先が、膜の上をぬるりと逸れる。二度、三度。三度目で、柄が手から抜けた。剣は、音もなく沈んでいった。
革鎧の継ぎ目から、桃色が入り込んでいく。袖口から、襟元から。男は腕を振り回して払い落とそうとしたが、払ったそばからまた入り込んだ。
男が、両腕を広げる。
渦が太くなる。男の体が、桃色の水面から持ち上がっていく。腰が出る。膝が出る。
ただ、膝から下にまとわりついた桃色が、糸を引いて離れなかった。
男の体は、水面から腕一本分ほど上がったところで止まった。どれだけ渦を強めても、そこから先へは上がらない。張りつめた桃色の糸が、やがて男をゆっくりと引き戻した。
ふたたび、胸まで沈んだ。
見上げても、天井に穴はない。
男の口が、また開いた。今度は、怒鳴っているようには見えなかった。
風の渦が、少しずつ細くなっていく。男が息を荒げるたびに、顔のまわりのへこみが揺らいで、そのふちから桃色が這い上がってくる。
顎の下まで来た。
俺はコアに手を置いたまま、男の顔を見ていた。
男の目が、据わる。
桃色の中で、右手がゆっくりと持ち上がる。人差し指が、立つ。
小さな光がともり、そのまわりを、桃色を押しのけて風が巻きはじめる。
桃色の底で、男の指先に赤い螺旋が巻きついた。




