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異物混入 〜ドラッグストア店員、異世界の宿屋でダンジョンマスターになる〜  作者: タイハクオウム


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第六話

 赤い光が、桃色の中で膨らんだ。


 男の腕を伝って、螺旋が巻き上がる。風がまわりを押しのけ、その隙間を火が走る。男のまわりに、ぽっかりと丸い穴が開いた。


 水面が、泡立った。


 泡は男を中心に輪になって広がり、壁際までたどり着くと、そこで弾けた。弾けたところから、目に見えて嵩が減っていく。


 コアに置いた手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。


 男が、もう一度指を回す。螺旋が太くなる。火の輪が、水面の上を転がるように広がっていく。


 水面が、下がりはじめた。


 顎まで沈んでいた男の体が、ゆっくりと現れる。肩が出る。胸が出る。水位が下がるのに合わせて、男の体も一緒に下へ降りていった。


 七メートルあった深さが、六メートルになり、五メートルになる。


 俺は板を開いた。


――地下一階のスライムが損傷しています。


 知っている。光の中で、見えている。


 四メートル。三メートル。


 男のブーツが、石の床を踏んだ。


 残りは、もう膝の高さもなかった。火の届かない部屋の隅へ、自分から寄り集まっていく。壁の膜は薄く焦げて、ところどころで泡がまだ弾けていた。


 男は、自分の足で立っていた。


 両手を膝について、肩で息をしている。それから顔を上げて、天井を見た。十メートル上に、閉じた石の天井がある。


 男が口を開けて、笑った。


 声は、光の中までは届かない。それでも、笑っているのは分かった。頬が引きつり、歯がのぞき、喉が震えている。笑いながら、男は天井に向かって何か怒鳴った。


 男は壁際へ歩いていき、壁に残った膜に人差し指を向けた。小さな火が膜を舐めて、焦げた泡がはじける。もう一か所。さらにもう一か所。焼くたびに、男の肩が揺れていた。


 気が済んだのか、男は部屋の真ん中へ戻った。そして、片手を頭上へ突き上げた。


 風が巻く。男の体が、床から浮く。


 一メートル。二メートル。


 三メートルのところで、渦がほどけた。男の体は、そのまま床に落ちた。


 男は床に手をついたまま、しばらく動かなかった。火をともそうとして、ともらない。もう一度。今度は、豆粒ほどの火が、頼りなく揺れて消えた。


 男は舌打ちをして、床を見回した。


 部屋の真ん中の石の床に、鉄の蓋がある。


 地下二階へ降りる縦穴の蓋だった。


◇


 男は這うようにして蓋のそばまで行き、取っ手をつかんだ。


 俺は、コアに触れたまま念じた。


 閉じろ。開かないようにしろ。


――通路を塞ぐことはできません。


 板の文字は、それだけだった。


 男が、蓋を引き上げた。


 縦穴の中に、鉄の梯子が下へ続いている。男は穴を覗き込んで、しばらく耳を澄ませていた。


 それから、床に耳を当てた。


 俺がこの世界で目を覚ました夜と、同じ格好だった。


 石の床の下から、何かが聞こえるのだろう。一定の間隔で響く、心臓のような音が。


 男の顔が、ゆっくりと持ち上がった。


 口の端が吊り上がっていた。さっき天井に向けた笑いとは違う。探し物を見つけたときの顔だった。


 男が、穴に向かって何か言った。


 唇の形だけで、読めた。


 ――核か。


 男は、梯子に足をかけた。


 右手で梯子をつかみ、左手を頭の上に掲げる。その手に、ふたたび火がともった。今度は、消えなかった。小さな火を頭上にかざしたまま、男は一段ずつ降りていく。


 地下三階まで、来る気だ。


 背中で、コアの鼓動が鳴っていた。今夜は、その音がやけに大きく聞こえる。


 一段、また一段と、男が闇の中へ降りていく。頭上の火だけが、縦穴の中で小さく揺れていた。


 俺は、映す景色を地下二階に切り替えた。


 灰色の霧が、部屋の真ん中に浮いている。その下で、光が揺れている。腰の高さまで、目に見えない底が溜まっていた。


 コアに触れて、念じた。


 梯子の下へ。


 灰色の霧が、すうっと流れた。部屋の隅の、縦穴の真下へ寄っていく。男の顔が降りてくる、ちょうどその高さで止まった。


◇


 男の足が、梯子の最後の段を降りた。


 ブーツが、石の床に着く。腰から下が、目に見えない底に沈んだ。男は気づいていない。頭上に掲げた火が、男の髪を赤く照らしていた。


 男が振り返った。


 目の前に、灰色の霧があった。


 男がのけぞる。霧の芯が膨らんで、縮む。ふちから、もやがこぼれる。


 ぷしゅ。


 男の顔が、歪んだ。


 空いている手で、目を覆う。指の隙間から、涙がこぼれていた。目を開けようとして、また閉じる。もう一度開けて、強くこする。


 霧の芯が、また膨らむ。


 男は咳き込んだ。体を折って、何度も咳き込む。膝が崩れる。石の床に、片膝をつく。


 男の顔が、目に見えない底の中に沈んだ。


 口が、大きく開いた。


 吸っている。それなのに、胸が膨らまない。男は喉を両手でつかんで、もう一度吸った。顔が赤黒くなっていく。


 男が、跳ねるように立ち上がった。


 顔が、底の上に出る。吸い込む。今度は、胸が膨らんだ。


 男は梯子に飛びついた。


 掲げていた火が、消えた。両手で、鉄の段をつかむ。


 つかんだ手が、つるりと滑った。


 男は自分の手のひらを見た。指の股に、桃色が薄く光っている。袖口からも、ブーツの底からも、まだにじみ出ていた。もう一度つかむ。滑る。しがみついて足をかける。ブーツの底が、鉄の段の上で横に流れる。


 男の体が、梯子の下に崩れ落ちた。


 顔が、また底の中に沈みかける。男は四つん這いのまま首だけをもたげて、喘いだ。それから壁にすがって、もう一度立ち上がった。背中を壁に預けたまま、肩が大きく上下している。


 涙で濡れた目が、灰色の霧をにらんだ。


 男が、右手の人差し指を、霧へ向けた。


 指先に、火がともる。


 缶の裏の、小さな赤い字が浮かんだ。


 ――火気厳禁。


 風が巻いた。


 男の足もとから、床に溜まっていたものが、渦に引きずられて舞い上がる。光の揺れが、一瞬で部屋じゅうに散った。


 顔のない霧の芯が、ふっと膨らむ。


 笑ったように、見えた。


 赤い螺旋が、伸びた。


◇


 光の中が、真っ白になった。


 次の瞬間、映していた景色が消えた。


 頭の上で、腹の底に響く音がした。石の天井から砂がこぼれ落ちる。コアの光が、蝋燭の火のように細くなって、また戻った。


 足もとが、揺れていた。


 しばらく、何も聞こえなかった。


 コアの鼓動だけが、いつもより速く、耳の奥で鳴っていた。


 板が、浮かんだ。


――侵入者を一名撃破しました。DPを獲得します。


――火と風の魔法使い:1,200DP


――DP:711 → 1,911


――特別な撃破条件を達成しました。


――異物混入がLv2になりました。(付与枠 2)


――ダンジョンの新たな機能が解放されました。


 数字を、三回読んだ。


 一晩で、二千に届きかけていた。


 コアに触れて、地下二階を映す。


 何も見えなかった。灰色の霧も、男の姿も、どこにもない。石の床と、黒く煤けた壁があるだけだ。床近くの光の揺れも、消えていた。


 地下一階を映す。


 スライムは、部屋の隅に溜まりのように残っていた。壁の膜は、ところどころ焦げて剥がれ落ちている。縦穴の鉄の蓋は、部屋の反対側の壁際まで吹き飛んでいた。


 光の中の天井に目をやって、息が止まった。


 一角に、四角い穴が開いている。女部屋の隅の寝台の下にある、古い床下収納の底だ。いつもは上から白いスライムが蓋を押さえている。


 その穴の向こうに、揺れる明かりが見えた。


◇


 隠し階段を、駆け上がった。


 壁の内側を折り返すたびに、焦げた匂いが濃くなる。地上に出ると、大部屋は人の声で埋まっていた。足もとで、部屋の隅の床板が音もなく元の高さに戻る。俺に目を向ける者はいなかった。


 強い酒で潰れていた客たちが、寝台の上で起き上がっていた。誰もが、何が起きたのかと仕切りの向こうを覗き込んでいる。


 奥の寝台は、空のままだった。藁が掻き乱され、倒れた水差しのまわりの床が黒く濡れている。戸口のそばには、主人の薪が転がったままだ。そちらを見る者は、一人もいなかった。


 女部屋の隅の寝台が、横倒しになっていた。


 その下の床に、四角い穴が開いている。床下収納の蓋は、天井近くまで跳ね上がったのか、仕切りの板に叩きつけられて、二つに割れていた。穴の縁からは、まだ薄い煙が立ちのぼっている。甘ったるい薬の匂いと、何かが焦げた匂いが混じっていた。


 壁に、白いものが張りついていた。


 白いスライムだった。蓋と一緒に吹き飛ばされたらしい。平たく潰れたまま、壁の上を少しずつ這い下りてくる。


 思わず、そちらへ一歩踏み出しかけた。


 戸口に、明かりがあった。


 主人が、手燭を持って立っていた。額に、濡れた布を押し当てている。後ろから、娘が父親の腕を支えていた。


 主人は大部屋を見回して、女部屋の隅の穴で目を止めた。


 それから、手燭をかざしたまま、ゆっくりと俺のほうを向いた。


「帳面屋」


 主人の声は、低かった。


「……ありゃあ、なんだ」

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