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異物混入 〜ドラッグストア店員、異世界の宿屋でダンジョンマスターになる〜  作者: タイハクオウム


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第四話

 コアの前の空気が、ぷしゅ、と鳴った。


 缶の頭を押し込んだときと、同じ音だった。


 目の前に、灰色の霧が浮かんでいた。拳を二つ合わせたくらいの大きさで、丸くまとまってはいるが、輪郭が定まらない。ふちのほうから絶えずほどけては、また内側へ巻き込まれていく。


 顔はなかった。目も口も、手足もない。ただ、霧の芯のあたりが、ときどき息をするように膨らんでは縮んだ。


 顔を近づけると、薬っぽい、少し甘ったるい匂いがした。夏の売り場の、通路の端の匂いだ。


――ゴーストを召喚しました。


――付与された異物:虫除けスプレー


――DP:702 → 642


 ゴーストは、食べない。板にもそう出ていた。


――ゴーストは食事を必要としません。


 ゴミを食わせる手間はいらないかわりに、育つこともない。それでいい。こいつに大きくなってもらうつもりはなかった。


 コアに触れて、地下二階へ移れと念じた。


 灰色の霧は、すうっと床に吸い込まれて消えた。光の中に地下二階を映すと、十メートル四方の石の部屋の真ん中に、ぽつんと浮かんでいる。


 しばらく見ていた。


 霧の芯が膨らむ。縮む。そのたびに、ふちから薄いもやがこぼれて、床へ落ちていく。


 ぷしゅ。ぷしゅ。


 光の中からは音までは届かないのに、あの音が聞こえる気がした。


◇


 次の夜、地下二階を映して、目をこらした。


 何も見えない。石の床があって、その上に灰色の霧が浮いている。それだけだ。


 ただ、床の近くだけ、光がわずかに揺れていた。夏の道路の、遠くが溶けて見えるときの揺れ方に似ている。


 溜まっているのだ。


 虫除けスプレーの缶の中身は、ほとんどが薬じゃない。中身を押し出すためのガスだ。缶を振るとしゃかしゃか鳴る、あの軽さの正体がそれだった。


 そのガスは、空気より重い。


 だから上には昇らない。床を這って、低いところへ溜まっていく。大部屋まで漏れてくる心配はなかった。隠し階段は壁の内側を通っていて、部屋とはつながっていない。


 地下一階には、桃色の底がある。目に見える、触れれば沈む底だ。


 地下二階には、目に見えない底ができはじめていた。


 そして、それは燃える。


 この部屋に、火を持ち込んだ者がどうなるか。考えるまでもなかった。


◇


 コアのそばに腰を下ろして、上から順に部屋をたどった。


 大部屋の床が開けば、落ちた者は桃色の底に沈む。運よく抜けても、その下には目に見えない底が待っている。さらにその下には、コアと俺がいる。


 宝箱も、引き返す道もない。学生のころに遊んだゲームのダンジョンには、どれだけ意地が悪くても、抜け道が一つはあった。


 ここには、それもない。


 入った者は、一人も帰さない。帰せば、この宿のことが外に漏れる。漏れれば、次は俺が狩られる側だ。


◇


 その男が来たのは、雨の降る夕方だった。


 背中に木箱を背負った行商人で、箱の中には、親指ほどの素焼きの壺がぎっしり詰まっていた。


「熱冷ましですよ。どんな高い熱も、一晩ですっと引く」


 食堂の卓で、男は壺を一つ置いて愛想よく笑った。子どもが熱を出しているという客が、銀貨一枚で一つ買っていった。


 客が卓を離れると、男は同じ卓の行商仲間に向かって、声を落とした。


「中身は竈の灰と、苦い草の汁だ。効くわけがねえ」


「熱が下がらなかったら、どうすんだ」


「下がらなきゃ、死ぬだけだろ。前に回った村じゃ、ガキが何人かくたばったって騒いでたな。そのころには、俺はもう次の村だ」


 行商仲間は、鼻で笑っただけだった。


 俺は、木箱の中の壺を数えた。まだ、三十は残っている。


 その夜、男は寝台を抜け出して、仕切りをまたいだ。


 女部屋の隅の毛布のそばに膝をつき、毛布の端から手を差し入れる。一人旅の女なら、どこかに財布くらい抱えて寝ていると思ったのだろう。


 暗がりの中で、毛布の端から細い腕がのぞいていた。白い、柔らかそうな肌だ。


 男の喉が鳴る。財布を探していた手が、その腕をつかむ。


 つるん、と。


 握ったはずの指の間から、白い腕が抜ける。男は前のめりになって、毛布に手をつく。その手のひらも、つるりと滑った。


 男が体勢を崩した瞬間、その足もとの床が開く。


――侵入者を一名撃破しました。DPを獲得します。


――偽薬売りの男:70DP


 夜明け前、男の木箱を部屋の隅まで運んで、白いスライムの前に置く。


 白い体が、木箱ごと壺を包み込んだ。素焼きの割れる音はしない。


◇


 その日の昼、客が出払った大部屋を見て、手が止まる。


 仕切りの向こうの、女部屋の床だけ色が違った。


 何年分もの泥と脂が染みて黒ずんでいたはずの床板が、白っぽく乾いている。寝台の脚のまわりにも、隅にも、埃ひとつない。


 男部屋の側は、いつもどおりだった。泥のこびりついた床に、誰かがこぼした麦酒の染みが変わらずにある。


 隅の寝台の下を覗くと、床板の一枚が、もぞりと動いた。


「お前か」


 床板は、床板のふりをしたまま答えない。木箱を食べたあと、しばらく姿が見えないと思ったら、女部屋の床を這い回っていたらしい。


「こっちも頼むよ」


 男部屋の床を指さしても、床板は動かなかった。


 ただ、よく見ると、俺の寝台のまわりだけは、女部屋と同じ色になっていた。


「……どういう基準なんだ」


 夕方、娘が毛布を抱えて入ってきて、女部屋の床を見るなり足を止める。


「え。これ、帳面屋さんが磨いてくれたんですか」


「俺は……」


「すごい。新しい板みたい」


 娘はしゃがみこんで、床板を指でなぞった。それから、仕切りの向こうの男部屋を振り返る。俺の寝台のまわりだけ綺麗で、その先は黒い床板だ。


 娘は、吹き出した。


「自分の寝台のまわりと、女部屋だけ?」


「……そんなところです」


「女の人の側を先にやってくれたんですね。ありがとうございます」


 娘は笑いながら、毛布を配りはじめた。


 寝台の下で、床板がもう一度、もぞりと動いた。


◇


 あの日から、若い冒険者はときどき宿に来るようになった。


 三日か四日に一度、夕方にふらりと現れて、一晩だけ泊まっていく。従者は戸口まで付き添うと、近くの上等な宿へ引き上げ、朝になるとまた迎えに来た。


 上等な宿に泊まれる身分で、わざわざこの宿の大部屋に寝る理由は、一つしかなさそうだった。


 男は荷を下ろすと、まず酒を頼む。


 頼むのは、決まって娘だった。


「酒。お前が持ってこい」


 ある晩、娘が杯を卓に置いて戻ろうとすると、男が前掛けの紐をつまんだ。


「酌は」


「すみません、お客さん。厨房がまだ……」


「厨房なんざ、親父にやらせとけ」


 男が紐を引いた。娘の体が傾いて、盆の上の杯が倒れる。麦酒が、男の膝にこぼれた。


 大部屋が、しんとなる。


 男は濡れた膝を見下ろして、それから笑った。


「拭け」


 娘は、前掛けの端で男の膝を拭いた。そのあいだ、男は娘の髪をひと房、指に巻きつけて遊んでいた。


 娘は最後まで笑顔のままだった。盆を胸に抱えて厨房へ戻っていく足だけが、少し速かった。


 大部屋の客たちは、見て見ぬふりをした。


 気づくと、男の足もとの床に、意識が伸びていた。


 開きかけて、やめる。


 大部屋には、まだ客が何人も残っている。


 膝の上で握っていた拳を、ゆっくりほどいた。


 男は、隣の寝台の客を相手に、酒の続きを始めていた。


「見せてやろうか」


 男が、人差し指を立てる。


 指先に、豆粒ほどの火がともった。


 指をゆっくり回すと、火は細い糸になって伸びた。そのまわりを、目に見えない何かが巻いていく。隣の寝台の毛布の端が、ふわりとめくれた。風だ。


 風に煽られて、火の糸はひと回り太くなった。赤い螺旋が、男の指先から手首へ、するすると巻きついていく。


 思わず、寝台の上で首を伸ばしていた。


 この世界に来て、初めて見る魔法だった。


 種も仕掛けもない。指先から火が出て、風が巻いて、その二つが絡み合って形を作っている。暗い大部屋の中で、赤い螺旋だけがくっきりと浮かんでいた。


 きれいだ、と思った。


 男は、その指を隣の客の鼻先へ突き出した。


 客がのけぞる。髭の焦げる匂いが、隅の寝台まで流れてきた。


 男は笑って、指を振った。螺旋はほどけて、火の粉になって消えた。


「あの娘、よく笑うだろ。泣かせたら、どんな顔になるかと思ってな」


 隣の客は、愛想笑いを返しただけだった。


 男は指先に残った小さな火で、枕元の燭台に火を移した。


 背中から、寝台の藁ごと冷えていくようだ。


 さっきまで見とれていた螺旋が、頭から離れない。


 あの火が、地下一階の天井の穴から落ちてきたら。


 桃色の水面を思い浮かべて、その先を考えるのをやめる。


 男がようやく寝息を立て始めたのは、夜明け近くだった。


 隠し階段を降りて、コアに触れる。


――DP:711


 光の中に、地下二階を映した。


 灰色の霧は、部屋の真ん中に浮いたまま、ゆっくりと膨らんでは縮んでいた。


 その下で、光が揺れている。最初の夜は床の近くだけだった揺れが、今は膝の高さまで来ていた。


 何も見えない。けれど、たしかにそこにある。


 階段を上がると、奥の寝台で、若い冒険者が寝息を立てている。


 枕元の燭台には、まだ火が残っていた。男が、指先でともした火だった。

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