第三話
三人組が消えてから、四日が過ぎた。
朝は大部屋の床を掃き、昼は隅の寝台で帳面をつけ、夜はそのまま横になる。それが俺の一日になっていた。
主人は、俺が大部屋からあまり出たがらないのを、怠け癖だと思っているらしい。
「帳面屋。お前、日に当たらねえと腐るぞ」
「数字は日陰のほうがよく見えるんですよ」
主人は鼻を鳴らして、仕入れの帳面を俺の膝に放った。この仕事なら、大部屋でもできる。外に出なくて済むぶん、DPが減らずに助かった。
夜、隠し階段を降りてコアに触れた。
光の中に、地下一階を映す。
桃色の水面は、底から六メートル近くまで上がっていた。この四日間、ゴミを落とし続けた分だ。壁を這い上がる桃色の膜も、前より厚くなっている。
十メートルの部屋の、半分を超えた。
板の数字は、ほとんど動いていなかった。
――DP:371
客の滞在で入る分と、維持費で出ていく分が、ほぼ釣り合っている。三人組で得た分は、まだ手つかずだ。
使い道を考えて、板の項目をたどった。
――地上領域の拡張(宿屋全体):1,500DP
――拡張されるのは地上の領域のみです。地下の階層は、一辺十メートルのまま変わりません。
宿屋全体が領域になれば、大部屋の外でもDPは減らない。床も、どこでも開けられる。
だが、今の数字では半分にも届かない。
階層を広げられないなら、中を作り込むしかない。
ゲームのダンジョンなら、ここで通路を延ばして迷路を組むところだ。学生のころに遊んだゲームの迷宮は、どこまでも枝分かれしていて、地図を作るだけで日が暮れそうだった。
十メートル四方の箱に迷路を作っても、角を二つ曲がれば行き止まりだ。迷わせる前に、すぐ奥まで着いてしまう。
この箱でできるのは、落として、沈めることくらいだった。
まずは、空っぽのままの地下二階だ。
その前に、もう一度確かめておきたい項目があった。三階まで掘った最初の夜に、板に追加された二行だ。
――地下一階への通路:女部屋の隅、寝台の下。
――通路は隠すことはできますが、塞ぐことはできません。
女部屋の隅の寝台の下には、古い床下収納がある。雨水が染みて中が腐り、もう何年も誰も開けていないらしい。
三階まで掘ったあの夜から、その収納の底が抜けて、地下一階へ通じている。
蓋は、俺の意思では閉じられない。見つけた者なら、誰でも開けて降りてこられる。
白いスライムに床板のふりをさせているのは、そのためだった。
コアの光の中に、寝台の下の床を映す。木目まで真似た白い体が、蓋の上にぴたりと張りついていた。知らなければ、俺にも見分けがつかない。
◇
その日の夕方、二人連れの客が来た。
一人は、日に焼けた頬の若い娘だった。田舎から王都へ奉公に出てきたらしく、大きな布包みを抱えて、きょろきょろと大部屋を見回している。
もう一人は、その娘に付き添ってきた中年の男だった。仕立てのいい外套を着て、物腰がやわらかい。
「心配いらないよ。明日、奉公先のお屋敷に案内してあげるから」
男はそう言って、娘を女部屋へ送り出した。自分は奥の寝台に荷を下ろす。
夕食のあいだも、男はずっと娘に話しかけていた。お屋敷の旦那様はお優しい方だ。給金もいい。故郷に仕送りもできる。娘は頬を赤くして、何度も頷いていた。
その夜、客が寝静まったころ、男が荷袋を開けた。
取り出したのは、縄の束と、口を縛った小瓶だった。小瓶の栓を抜いて、布切れに中身を染み込ませる。甘い匂いが、隅の寝台まで流れてきた。
男は小声でつぶやいた。
「田舎娘が一人。それに……」
男の目が、仕切りの向こうの、隅の寝台で止まった。
「一人旅の女か。こりゃあいい。二人まとめて、明日の朝には船の上だ」
俺は寝台で目を閉じたまま、男の足音を数えていた。
男は先に、隅の寝台へ向かった。騒がない相手から片付けるつもりらしい。
布切れを手に、毛布の上へかがみ込む。女の顔があるあたりへ、布を押し当てようとした。
その手が毛布に触れた瞬間、俺は男の足もとの床を開いた。
男の姿が、ふっと消えた。
床が閉じる。小瓶が一つ、床に転がって止まった。
今夜は、コアを見に降りなかった。落ちた先で何が起きるかは、もう知っている。
しばらくして、板が浮かんだ。
――侵入者を一名撃破しました。DPを獲得します。
――人買いの男:80DP
床に残った小瓶を拾い上げて、俺は布ごと床下へ落とした。
◇
翌朝、田舎娘は青い顔で帳場に立っていた。
「あの人が、いないんです。お屋敷に連れていってくれるって……」
主人は腕を組んで、渋い顔をした。
「お屋敷の名前は聞いたのか」
「……いいえ」
主人と娘が、顔を見合わせた。宿屋をやっていれば、そういう話はいくらでも耳に入るのだろう。
宿の娘が、田舎娘の肩にそっと手を置いた。
「奉公先なら、うちの知り合いに聞いてあげる。パン屋のおかみさんが、ちょうど人手を探してたの」
田舎娘は、ぽろぽろと泣き出した。
昼過ぎ、客が出払った大部屋で、男の荷袋を白いスライムに食べさせた。縄も、空の小瓶も、男の外套も。
底のほうから、細い鎖が出てきた。手首に巻くための、小さな枷が三つ付いている。
白い体は、それもゆっくりと飲み込んだ。
◇
それから十日のあいだに、女部屋の隅の毛布に手を出した客は、あと二人いた。
一人目は、戦帰りの傭兵だった。
熊のような主人よりも、さらに一回り大きい男だった。酒が入ると、焼いた村の数を指折り数えて自慢する。その指が、両手では足りなかった。
夜中、傭兵は千鳥足で仕切りをまたいだ。
隅の寝台の前で立ち止まり、毛布をつかむ。
俺は床を開いた。
傭兵の体が、床に沈みかけて、止まった。
片手が、寝台の枠をつかんでいる。太い指が木に食い込み、腕一本で、大きな体を支えていた。
穴の縁から、男の顔がのぞいた。酔いの覚めた目が、闇の中で見開かれている。
男が、息を吸い込んだ。
叫ばれる。そう思った瞬間、頭が真っ白になった。
床を閉じれば、腕ごと挟む。音がする。女部屋の客が目を覚ます。
開けたままでは、男は這い上がってくる。
どちらも選べないまま、俺は寝台の上で固まっていた。
毛布が動いた。
白いものが、毛布の下から伸びた。指のない、手の形をしたものだった。それが男の口をふさぎ、もう一本が、寝台の枠をつかむ指に絡みついた。
石鹸の匂いがした。
男の指が、ぬるりと滑った。
枠から手が離れる。男の体が、穴の底へ消えた。
俺は、ようやく床を閉じた。
女部屋は静かだった。毛布の膨らみが、何事もなかったように上下を始める。
俺は寝台の上で、しばらく自分の心臓の音を聞いていた。
あいつがいなければ、終わっていた。
――傭兵の男:170DP
――侵入者の累計撃破数が、五名に達しました。
――新たな召喚が解放されました。
――ゴースト:60DP
――動く鎧:80DP
――擬態箱:50DP
スライム以外も、呼べるようになったらしい。
二人目は、宿を渡り歩いて客の財布を抜く若い男だった。気づかれれば、ためらわずに刃物を使う。腰の短剣の柄には、拭いきれていない黒い染みがこびりついていた。女部屋の客の荷物を漁る途中で、隅の毛布にも手を伸ばした。
――盗人の男:90DP
DPは、少しずつ、けれど確かに増えていった。
◇
ある夕方、宿の娘が両腕いっぱいに毛布を抱えて、大部屋に入ってきた。
女部屋の寝台に、一枚ずつ配っていく。
「今夜も女部屋、いっぱいなんです」
娘は額の汗を拭って、嬉しそうに言った。
「うちは女一人でも安心して泊まれるって、市場で噂になってるみたいで。それに、女部屋はいい匂いがするって」
「匂い、ですか」
「花とも違う、洗いたての布みたいな匂いなんですって」
娘は不思議そうに首をかしげて、女部屋の隅の寝台に目をやった。たたまれた古い毛布が、一枚あるだけだった。
「帳面屋さんのおかげかもしれませんね。大部屋の番をしてくれてるから」
娘は笑って、洗い場へ戻っていった。俺は、何も言えなかった。
その晩、主人が帳場で首をひねっていた。
「妙な話だ。最近、夜明け前に出ていく客が多い」
「宿代は、前金でもらってるんでしょう」
「ああ。損はねえ。損はねえんだがな」
主人はそれ以上は言わず、帳面を閉じた。
◇
翌日の昼、宿の前に馬が止まった。
降りてきたのは、二十歳ほどの若い男だった。真新しい革鎧に、鞘まで磨き上げた長剣。冒険者の格好はしているが、どこにも傷ひとつない。
後ろから、年配の従者が慌てて追いかけてくる。
「若様、せめて個室を……」
「冒険者は大部屋に泊まるものだろう。そういう話を聞いて来たんだ」
若い男は、大部屋の戸口から中を見回して、鼻で笑った。それから、帳場の娘に目を留めた。
「お前が、この宿の娘か」
「はい。いらっしゃいませ」
男は、娘の手首を取った。品定めでもするように、ゆっくりと裏返す。
「荒れた手だな。もったいない」
娘は笑顔のまま、そっと手を引いた。男はそれを面白がるように、喉の奥で笑った。
従者が、重そうな革袋を帳場に置いた。主人が目を丸くする。一月分の宿代を、まとめて払うつもりらしい。
従者の外套の胸には、見慣れない紋章が縫い取られていた。
男が背を向けたあとも、娘は取られた手首を、もう片方の手でずっとさすっていた。
◇
その夜、地下三階でコアに触れた。
――DP:702
光の中に、地下一階を映す。
桃色の水面は、天井まであと三メートルほどのところまで来ていた。この十日で落とした三人分、そのたびに目に見えて嵩が増えた。
壁の膜は、もう天井の近くまで這い上がっている。前はさざ波ひとつ立たなかった水面に、ゆっくりとしたうねりがあった。息をしているようにも見える。
このまま増え続ければ、いずれ天井に届く。落とす高さがなくなれば、落ちた者の手が、床板の裏に届くかもしれない。
白いスライムが、俺の隣に寄ってきた。荷物を食べるたびに、少しずつ大きくなっている。最近は膝を抱えた形のまま、片手のようなものを伸ばして、俺の袖をつまむようになった。
「……どこで覚えたんだ、それ」
答えはない。袖をつまんだまま、離そうとしない。
板の項目を、もう一度たどった。
――地下一階の拡張:300DP
――スライムの召喚:40DP
――階層の入れ替え:100DP
地下二階は、まだ空っぽのままだ。
主人は、夜明け前に出ていく客が多いと首をひねっていた。娘は、女部屋の匂いを不思議がっていた。二人とも、何かを疑っているわけではない。それでも、少しずつ気づき始めている。
それに、昼に来た若い冒険者だ。従者を連れて歩くような男が一人消えれば、必ず誰かが探しに来る。
地下一階だけで足りるとは、もう思えなかった。
新しく増えた項目の一つに触れると、商品名の一覧が流れ出した。
その中の一つで、指が止まる。
夏になるたび、何百本と棚に並べた商品だった。
俺は、その名前に触れた。




