第二話
大部屋に戻ったのは、三人組より先だった。
寝台に潜り込むと、床下の鼓動がはっきりと耳に戻ってくる。外にいた間に減ったDPを思うと、胃が重くなった。
客の寝息を確かめてから、寝台を抜け出した。
部屋の隅に、主人が捨てそびれた壊れた椅子が転がっている。脚を一本もぎ取って、仕切りのそばの床に置いた。
それから、隠し階段を降りた。
地下三階のコアに手を触れると、青い光の中に地下一階の様子が浮かび上がった。
桃色の水面が、底から五メートルほどの高さまで溜まっていた。この六日間、宿のゴミを食わせ続けた結果だ。
水面には、さざ波ひとつ立っていない。よく見ると、壁の石にも桃色の膜が薄く這い上がっていた。指をかける場所は、どこにもない。
俺は、大部屋の床を開いた。
置いてきた椅子の脚が、天井の穴から落ちてきた。五メートル下の水面に落ちて、そのまま沈む。しぶきは上がらなかった。音もしなかった。
しばらく見ていると、水面の下で、木の色がゆっくりと溶けて消えていった。
落ちれば、立てない。這い上がれない。叫んでも、誰にも聞こえない。
俺が作ったのは、そういう部屋だった。
それでも、ほかに方法はないか考えた。
主人を起こしても、相手は剣を持った三人だ。主人はただの宿屋の親父にすぎない。
白いスライムを地下に逃がせば、今夜は空振りで済む。でも明日の夜、あいつらは娘のところへ行く。
皿を洗う娘の背中を思い出した。慣れちゃいました、と笑った顔も。
板の最後の一行が、頭に浮かんだ。
――領域内で倒れた侵入者の力に応じて、DPを獲得します。
生きるためだ。それに、あいつらは悪人だ。
そう決めると、手の震えは思ったより早く止まった。
問題は、相手が三人だということだった。一人ずつ落とせば、残りに気づかれる。
三人が毛布の前にそろった瞬間に、まとめて落とすしかない。
地上に戻って、白いスライムに毛布をかぶせた。女部屋の隅の寝台に寝かせる。
自分の寝台には、丸めた毛布を押し込んでおいた。暗がりで見れば、誰かが寝ているように見えるはずだ。
それから、もう一度隠し階段を降りた。今夜は、コアの前で待つ。
コアに触れて、光の中に大部屋を映す。
ほどなくして、戸口が開いた。三人組が、井戸端から戻ってきた。
◇
夜半を過ぎた。
光の中で、三人が寝台から起き上がった。
裸足で床を渡る。一人ずつ、仕切りの板をまたいでいく。
女部屋の隅で、毛布の膨らみが上下していた。寝息のような、ゆっくりとした動きだった。そんなことを教えた覚えはない。
傷の男が膝をついた。
残りの二人が、その背後に立つ。
毛布に顔を近づけて、傷の男がにやりと笑った。
手が、毛布を掴む。
引き剥がそうとした。
今だ。
俺は、三人の足もとの床を開いた。
光の中で、床板がめくれ上がった。
三人の姿が、まとめて床下へ消える。
床が閉じた。
女部屋の客は、誰も目を覚まさなかった。男部屋でも、寝返りを打つ者さえいない。
毛布の膨らみだけが、さっきと同じ調子で上下している。
念じて、映す景色を地下一階に切り替えた。
三人が、桃色の水面に落ちてきたところだった。
しぶきは上がらない。音もない。
傷の男が、水面から顔を出した。口を大きく開けて、何か叫んでいる。何も聞こえなかった。
背の低い男が、壁まで泳いだ。石に手をかける。ぬるりと滑って、また沈む。
何度やっても、同じだった。
三人目は、立とうとしていた。足が底に届かないのか、届いても滑るのか。水面で、手足がばたつき続けている。
コアから手を離せば、見ずに済んだ。それでも、離さなかった。
やがて、動きが鈍くなった。
背の低い男の手が、壁から離れた。
傷の男の頭が沈んで、それきり浮いてこなかった。
最後まで残っていた手が、ゆっくりと桃色の中に消えた。
やがて、水面は動かなくなった。
しばらくすると、水面の下で、三人の影の輪郭がぼやけ始めた。椅子の脚と同じだった。色が薄れ、形が崩れて、やがて何も見えなくなった。
あとには、桃色の水面だけが残っていた。
止めていた息を、吐いた。
――侵入者を三名撃破しました。DPを獲得します。
――顔に傷のある男:150DP
――背の低い男:100DP
――痩せた男:100DP
――DP:18 → 368
――地下一階のスライムが成長しました。
光の中で、桃色の水面が、目に見えて高くなっていた。
五日間ほとんど増えなかった数字が、一晩で二十倍になっていた。
◇
大部屋に戻ると、奥の寝台に三人の荷物が残っていた。
剣と、革袋と、銅貨の詰まった巾着。一つずつ抱えて、女部屋の隅の寝台へ運ぶ。
毛布の下に押し込むと、白いスライムがそれを包み込んだ。剣も、革袋も、少しずつ白い体の中に沈んでいく。音はしなかった。
夜明けが近い。毛布ごと白いスライムを抱えて、隠し階段を降りた。
地下三階で下ろすと、白い体は、ほんの少しだけ重くなっていた。
荷物の分だけ、わずかに大きくなったらしい。
コアのそばに座って、黒パンを出す。夕食のあと、娘がまた包んでくれたものだ。
かじっていると、白いスライムが隣に寄ってきた。俺と同じように、膝を抱える形になる。
「真似すんなって」
パン屑を落とすと、白い体がそれを包んで、すぐに消した。
あくびをすると、スライムの頭のあたりも丸く開いた。
思わず吹き出した。この世界に来て、初めて笑った気がした。
◇
夜が明けて大部屋を出ると、主人が帳場で腕を組んでいた。
「おい、帳面屋。あの三人組、どこへ行ったか知らねえか。寝台が空だ」
「夜明け前に出ていったみたいですよ。物音はした気がしますけど、寝ぼけてたんで」
「そうか。宿代は前金でもらってるから、損はねえがな」
主人は鼻を鳴らして、少しだけ声を落とした。
「正直、助かった。あいつら、娘をじろじろ見やがってよ」
そのとき、表の戸が叩かれた。
入ってきたのは、槍を持った衛兵が二人だった。年かさのほうが、気だるそうに帳場へ寄りかかる。
「東の街道で、行商人が川に沈められた。三人組の仕業だ。顔に傷のある男がいる。泊まってねえか」
主人が、ちらりと俺を見た。
「泊まってたよ。けど、夜明け前に出ていった」
「出ていった?」
「ああ。寝台はもう空だ」
衛兵は大部屋の戸口から中を覗き、空の寝台を確かめた。それから、大きく息を吐いた。
「なら、もう王都の外だな。街道の先は、俺たちの持ち場じゃねえ」
厄介ごとが一つ片付いた、という顔だった。
「邪魔したな」
衛兵たちはそれ以上何も聞かず、次の宿へ向かっていった。
◇
大部屋に戻ると、客はみんな出払っていた。
隅の寝台に腰を下ろすと、床板の隙間から白いものがにじみ出てきた。白いスライムだった。足首に絡みついて、膝のあたりまで這い上がってくる。
「……昼は出てくるなって言ったろ」
口ではそう言ったが、追い払う気にはなれなかった。石鹸の匂いがした。
衛兵は、もう来ない。少なくとも、あの三人のことでは。
板を開くと、数字は三百を超えていた。三人で、これだけだ。もっと強い相手なら、もっと入ってくるのだろう。
だが、強い相手ほど、消えれば誰かが探しに来る。
今朝の衛兵は、たまたま面倒くさがりだっただけだ。次もそうだとは限らない。
白いスライムは、まだ膝の上から離れようとしなかった。




