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第八話 今日は適用外です

 土曜日、午前九時五十八分。

 玄関のチャイムが鳴った。


 僕は八時から起きていた。掃除機は昨日かけた。窓も拭いた。今朝はもう一回、窓を拭いた。

 来るとは書いてない、と昨日の僕は言った。

 書いてないことのために、窓を二回拭く男がどこにいる。ここにいる。


 ドアを開けた。


「おはようございます。二分、早かったですか」


 百舌鳥(もずどり)囁(ささやき)が立っていた。


 制服じゃない。

 白いブラウスに、紺のスカート。髪を、いつもと違うところで結んでいる。


 見るな、と思った。思った時点で見ている。これは木曜にも学んだ。学んだのに、また見ている。


「……鐘ヶ淵くん?」

「第——」

「今日は適用外です」


 先に言われた。

 僕、鐘ヶ淵(かねがふち)綴(つづり)は、口を開けたまま止まった。


 そうだった。土日は規約の外だと決めたのは、僕だ。

 何条を言おうとしたのかは、自分でも分からない。たぶん、何でもよかった。条文を言っていないと、この人の前で何を言えばいいのか分からない。


「上がって」


 月曜の夜から数えて、初めて規約なしで喋った。三文字だった。


 家には誰もいなかった。両親は土曜も仕事だ。

 それを彼女に伝えたとき、彼女の耳が赤くなって、僕の頭には六十という数字が浮かんだ。


 適用外だ。

 適用外なのに、浮かぶ。


「これ、お土産です」


 彼女が紙袋から出したのは、プリンだった。二つ。

 ふたに、油性ペンで名前が書いてある。

 『鐘ヶ淵』。『百舌鳥』。

 小さい「ケ」まで、正確だった。


「名前を書かないプリンは、誰のものか分からなくなるので」

「……それ、僕の理論だ」

「はい。去年、教室で聞きました。正しいと思ったので」


 去年、あの話をして、クラス全員に笑われた。

 笑わなかった一人が、一年後、名前を書いたプリンを持って、うちの居間に座っている。


 何か言わないといけない。ありがとう、でいい。それだけでいい。


「第三十三——」

「適用外です」


 二回目。

 彼女は少し笑って、スプーンを僕に渡した。


「鐘ヶ淵くん。規約がないと、喋れないんですか」

「喋れる」

「じゃあ、何か喋ってください」

「……」

「……」

「プリンが、うまい」

「まだ開けてません」


 負けた。プリンを開ける前に、負けた。


 プリンを食べ終わると、彼女は鞄からクロスワードの雑誌を出した。


「一緒に解きませんか。一人だと、解くのが速すぎて、すぐ終わってしまうので」

「自慢か」

「事実です」


 居間のテーブルに雑誌を広げる。ペンは一本。

 交代で書き込むので、自然と、肩が近くなる。


 近い。

 彼女が書くたびに、結んだ髪の先が、僕の肩のあたりで揺れる。シャンプーの匂いがする。今日は傘がない。傘のせいにできない。


 問題は、どんどん埋まっていった。

 彼女が速い。僕が一つ考えているあいだに、彼女は三つ書く。

 残りは、一マスになった。


 彼女の手が止まった。

 ペンの先を最後のマスの上に浮かせたまま、口の端が、ほんの少し上がる。


「今、笑った」


 気づいたら、口に出していた。


「笑ってません」

「笑った。最後の一マスを埋める前に、いつも少し笑う。去年からずっとそうだ」


 言ってから、しまった、と思った。


 彼女が、ゆっくり顔を上げた。


「……なんで、知ってるんですか」


 昨日、彼女が燕に聞かれたことを、今日は僕が聞かれている。


「去年から、って」

「見えてたんだ」

「一年間?」

「たまたまだ。たまたまだ」


 二回言った。

 顔が熱い。耳まで熱い。この人の癖が、うつっている。


 彼女は何も言わなかった。

 何も言わずに、最後の一マスを埋めた。埋める前に、今度ははっきり笑った。隠さなかった。


「……おあいこですね」

「何が」

「言いません」


 彼女はペンを置いて、雑誌を閉じた。閉じた雑誌で、顔の下半分を隠している。

 隠れていない耳が、真っ赤だった。


 居間が静かになった。

 時計の音が聞こえる。冷蔵庫の音も聞こえる。自分の心臓の音は、聞こえないことにした。


 昼過ぎに、彼女は帰ると言った。

 玄関で靴を履いて、立ち上がって、指を三本立てる。


「あと三日です」

「土日は適用外だろ」

「数えるのは、規約じゃないので」


 火曜日に何があるのか、今日も二人とも言わない。

 言わないまま、彼女はドアに手をかけた。


 今だ、と思った。


 昨日、言えなかったことがある。

 今日は規約がない。条文に逃げられない。逃げられないなら、言うしかない。


「百舌鳥さん」

「はい」

「第——」

「適用外です」

「違う。条文じゃない。ええと」


 喉が、いらない唾を飲んだ。


「その髪。……かわいい、と思う」


 言った。

 声は小さかった。語尾は消えた。それでも、言った。


 彼女は、ドアのほうを向いたまま動かなかった。


 聞こえなかった顔を、するのだろう。

 昨日、自分で「します」と言っていた。


 彼女が振り向いた。

 首まで赤かった。目が少し潤んでいた。聞こえなかった顔には、まったくなっていなかった。


「……聞こえませんでした」

「嘘だろ」

「聞こえなかったので」


 彼女は、一歩、戻ってきた。


「もう一回、言ってください」


 ずるい、と思った。

 聞こえなかったふりを、そういうふうに使うのか。


「……かわいい」

「はい」

「聞こえてるじゃないか」

「今のは、聞こえました」


 彼女は笑って、今度こそドアを開けた。

 門のところで一度だけ振り返って、小さく手を振る。その手で、やっぱり自分の耳を押さえていた。


 ドアを閉めて、しばらく玄関に立っていた。


 かわいい、と二回言った。

 二回とも、規約の外で言った。どの条文にも書いていないことを、自分の口で言った。


 書いてあることだけを信じる、と決めたのは、去年の僕だ。

 今日の僕は、書いてないことを言って、書いてない返事をもらって、それを信じかけている。


 足元に、水色が見えた。


 傘立てに、水色の折りたたみ傘が差してある。

 今日は一日、晴れていた。傘を持ってくる理由がない。


 忘れ物だ。

 この人は木曜、傘があるのに「忘れました」と言った。嘘が下手だった。

 今日は何も言わずに、本当に置いていった。


 嘘が、少しうまくなっている。


 スマホで月曜の天気を調べた。


 雨だった。


――――――――――

お読みいただき、ありがとうございます。

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毎日12時と20時に更新しています。

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