第七話 嫉妬はしていません
規約を使わない作戦、二日目。
今日こそ普通に過ごす。条文を一つも口にしない。
金曜の朝、駅の改札を出る前に、僕はそう決めた。
「おはようございます。第二十三条により、傘は一本です」
改札の外で、百舌鳥囁が、水色の小さい傘を持って待っていた。
作戦、開始前に終了。
昨日は三十秒もった。今日は〇秒だ。記録が悪化している。
「待ってたのか」
「たまたまです。同じ電車だったので」
「僕は反対方向から来た」
「……たまたまです」
二回言った。耳が赤い。
僕、鐘ヶ淵綴は、それ以上聞かなかった。聞いたら、この人はもっと下手な嘘をつく。
小さい傘に二人で入る。彼女は左側。昨日と同じように、僕の袖を掴んだ。
「袖です」
「聞いてない」
「先に言っておこうと思って」
学園までの道で、彼女は袖を掴んでいないほうの手を、僕の顔の前に出した。
指が四本、立っている。
「あと四日です」
「数えてるな」
「数えてます」
火曜日に何があるのか、彼女は言わない。僕も聞かない。
二人とも知っていて、二人とも言わない。傘の中は、今日も狭かった。
放課後。風紀委員室。
「先輩! 彼女できたって本当ですか!?」
扉が開くのと声が飛んでくるのが同時だった。
二年の燕伊予。風紀委員で、僕の部下で、廊下を走るなと百回言っても走ってくる後輩だ。
「燕。廊下は」
「歩きました! 早歩きです! それより彼女!」
「報告書は」
「出しました! 期限の二日前に!」
「えらい」
僕は心から言った。
「えらいぞ燕。期限を守る人間は宝だ。お前は風紀委員会の宝だ。かわいい後輩を持って、僕は幸せだ」
「えへへ。もっと言ってください」
「かわいい。えらい。かわいい」
扉のところに、百舌鳥さんが立っていた。
いつからいた。
「鐘ヶ淵くん。今、かわいいって言いましたか」
「言った。後輩として」
「三回」
「数えてたのか」
「……そうですか」
彼女は笑顔だった。
笑顔なのに、部屋の温度が二度下がった。
この人は、自分が「かわいい」と言われても返事をしない。聞こえなかった顔をする。
その人が、他人に向けた「かわいい」は、三回とも数えていた。
「わ、本物だ」
燕が目を輝かせた。
「百舌鳥先輩ですよね! クラスで二番目の!」
百舌鳥さんの目元が、ぴくっと動いた。
一瞬だけ、すごく悔しそうな顔になって、すぐ笑顔に戻る。
燕。それは言うな。僕でも言わない。
「でも先輩のことなら、私のほうが詳しいですよ。一年間、一緒に委員会やってるんで」
「……負けません」
出た。
何の勝負かも決まっていないのに、もう負けないと言っている。
「じゃあ問題です! 鐘ヶ淵先輩がいちばん好きな校則は!」
「え」
「第四十二条、廊下は右側通行! 先輩、これ言うとき声が半音上がるんです!」
正解だ。上がっているのは知らなかった。
百舌鳥さんが、はっきり悔しそうな顔をした。今日二回目だ。
「……問題です。鐘ヶ淵くんがドリンクバーで最初に注ぐものは」
「えっと、コーヒー?」
「メロンソーダです。三分かけて注ぎます」
「三分!?」
燕が僕を見た。見るな。あれには事情がある。
「もう一問。鐘ヶ淵くんは、傘をどちらに傾けますか」
「えー、知らないです」
「左です。だから右の肩だけ濡れます。去年の梅雨は、毎日濡れてました」
燕が黙った。
黙ってから、百舌鳥さんと僕を、ゆっくり見比べた。
「……なんで、そんなこと知ってるんですか」
「見えてたので」
「一年間?」
「たまたまです。たまたまです」
二回言った。首まで赤い。
「先輩」
燕が、僕の腕章を引っぱって小声で言った。小声になっていなかった。
「この人、めちゃくちゃ先輩のこと見てますよ」
知ってる。昨日、知った。
なぜ見ていたのかは、まだ聞いていない。
「お邪魔しました! 月曜に全部聞かせてくださいね!」
燕は走って出ていった。廊下は歩け。
二人になった。
「腕章、曲がってます」
燕が引っぱったせいだ。
百舌鳥さんが近づいてきて、僕の腕章の安全ピンを外した。
近い。
下を向いた彼女の、つむじが見える。ピンを留め直す指が、少し震えている。
「……かわいいって、簡単に言うんですね」
「後輩だからな」
「私には、一度も言ってません」
息が止まった。
言っていない。確かに、一度も。
言っても返事をしない人だから。聞こえなかった顔をされるのが、嫌だったから。
そう言えばいいのに、口から出たのは別の言葉だった。
「……言ったら、聞こえなかった顔をするだろ」
「します」
「するのか」
「しますけど」
彼女はピンを留め終えて、でも手を離さなかった。
「言われないのは、もっと嫌です」
僕は何か言おうとした。
言おうとして、条番号が先に出た。
「第五十……いや」
「五十五条ですよね。嫉妬の」
「なんで覚えてるんだ」
「見出し、読んでください」
読みたくない。中二の僕がつけた見出しを、この距離で読みたくない。
「……第五十五条〔嫉妬ノ炎ノ取扱〕」
「炎」
「中二の僕に言ってくれ」
「本文は」
「読めない」
彼女は手を離して、一歩下がった。耳が赤い。
「嫉妬は、していません」
「聞いてない」
「していません」
二回言った。
かわいい、と思った。
思っただけで、また言えなかった。
昇降口を出たら、雨が止んでいた。
「晴れた! 私が晴らした!」
五月雨式部が、空に向かって両手を上げている。昨日、天気に命令していた人だ。本当に晴れた。
「鐘ヶ淵! 傘いらないだろ! 一緒に帰るぞ!」
百舌鳥さんは空を見上げていた。
雲の切れ間から、夕日が出ている。
彼女は、はっきり残念そうな顔をした。
それから、水色の傘を開いた。
「降ってます」
「降ってない」
「私の解釈では、降ってます」
「解釈権は書いた者にある」
「『この規約の意味は、書いた者が決める』です。天気の意味は、誰が決めるとも書いてありません」
負けた。
僕の武器で、僕が負けた。
晴れた空の下を、小さい傘に二人で入って歩いた。
すれ違う全員が二度見していく。
「なんで晴れてるのに差してんだよ!」
後ろで五月雨が叫んでいた。
それは、僕も思っている。
思っているのに、袖を掴まれた腕を、引っこめなかった。
改札の前で、彼女は傘を畳んだ。
それから、指を四本立てた。
「あと四日です」
朝と合わせて、今日二回目だ。
僕は、ここで最後の作戦を出した。
「土日は学校がない。規約は登下校と教室の話だ。だから、土日は規約の適用外ということにしよう」
二日間、規約から離れる。二日あれば、頭を冷やせる。
我ながら、いい解釈だと思った。
百舌鳥さんは少し考えて、うなずいた。
「分かりました。土日は、規約の外なんですね」
「そうだ」
「じゃあ土日は、何をしても規約違反になりませんね」
「……ん?」
「家に押しかけても、文句は言えませんね」
「待て」
「住所は知ってます。去年、名簿係だったので」
「待て」
「明日、十時に」
彼女は改札を抜けて、振り返らずに手を振った。
振った手で、自分の耳を押さえている。後ろからでも分かる。
家に帰った。
気がついたら、部屋に掃除機をかけていた。
来るとは、書いてない。
書いてないことを、僕は信じない。
信じないけど、窓も拭いた。
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