第六話 傘は一本でいい
今日の作戦は「規約を使わない」だった。
昨日、襟を直されて首の横が熱くなった時点で、僕は反省した。
規約を出すたびに、僕のほうが縛られていく。
だから今日は、普通に帰る。
信号三つを隣に並んで、普通に「じゃあ」と言って別れる。
それだけ。
「傘、忘れました」
木曜の放課後、昇降口で、百舌鳥囁は言った。
外は雨だった。
朝から降っていた。
朝から降っていた雨の日に、傘を忘れる人はあまりいない。
しかも僕は、火曜日に見ている。
彼女の鞄の横に差してあった、水色の折りたたみ傘を。
今日も、鞄の横から水色が少しだけ見えている。
見えている。
ばっちり見えている。
隠す気があるのか。
この人は嘘が下手だ。
四日でそれだけは分かった。
嘘をつく前に耳が赤くなり、嘘をついた後に同じ言葉を二回言う。
顔は二番目で、嘘だけは一番下手だ。
その下手な嘘を、僕は月曜の夜から、一つも暴いていない。
「そうか」
僕、鐘ヶ淵綴は、それだけ言った。
言ったら、彼女は「あ、ありました」と言って、自分の傘を差して、隣を歩くだけになる。
それが今日の作戦どおりだ。
作戦どおりに、規約を使わずに、普通に帰れる。
「第二十三条〔雨天時ノ傘ニ関スル件〕」
口が勝手に言った。
作戦、開始三十秒で終了。
「傘の条文、あるんですか」
「見出しだけは。本文は読めないけど、僕の解釈では、雨の日は一つの傘で帰る」
「一つ」
「一つ。傘を忘れた汝は、我の傘に入る」
「……同意します」
鞄の横の水色が、彼女の手で、鞄の奥に押し込まれた。
押し込むところまで見えている。
僕は見なかったことにした。
作戦を捨てた男に、それ以上の権利はない。
「待て鐘ヶ淵!」
後ろから、五月雨式部が走ってきた。
大きな傘を差したまま走ってきたので、傘立てに傘がぶつかって、傘立てが倒れた。
屋内で傘を差すな。
風紀委員として言いたいが、今は言えない立場だ。
「百舌鳥、傘ないの? じゃあ私の貸す。大きいから。鐘ヶ淵は私と帰る」
「五月雨さん。第二十三条により、雨天時は書いた者の傘に入ることになっています」
「本文読めないんだろ! 鐘ヶ淵が言ってた!」
「読めなくても、書いた者がそう解釈したので」
「解釈って何だよ! 鐘ヶ淵! お前の規約、便利すぎるだろ!」
「便利だ」
「認めるな!」
五月雨は傘立てを起こして、僕と百舌鳥さんを交互に見た。
「……なんで二人とも、読めない条文で戦ってんだよ」
それは、僕も思った。
五月雨は自分の傘を差し直して、反対方向に歩いていった。
歩きながら、雨に向かって「明日は晴れろ」と言っていた。
天気に命令する人を、僕は初めて見た。
僕の傘は、黒くて、普通の大きさだ。
二人で入ると、狭い。
彼女は僕の左側にいた。
肩が当たらないように歩くと、彼女の右肩が雨に出る。
だから僕は、傘を左に傾けた。
自分の右肩が、雨に出た。
信号一つ分、そのまま歩いた。
「鐘ヶ淵くん」
「なに」
「傘、いつも左に傾けますよね」
「いつも?」
「去年の梅雨も。校門のところで、いつも左に傾けて、右の肩だけ濡れてました」
去年の梅雨、僕は一人で帰っていた。
傾ける相手はいなかった。
癖だ。
癖だと、いま初めて知った。
「なんで知ってるんだ」
「……見えてたので」
「見えてた」
「校門で。同じ時間に帰るので。たまたま」
「たまたま、一年間」
「たまたまが続いただけです」
続くか。
梅雨の間ずっと、たまたまで人の肩を見るか。
「……去年の梅雨、鐘ヶ淵くん、プリンの話の次の日から、誰とも帰らなくなったので」
その声は、たまたまの声じゃなかった。
プリンの話の次の日。
僕が「書いてあることだけを信じる」と決めた日だ。
決めた日から、僕は一人で帰っていた。
一人で帰る男の肩が濡れているのを、この人は一年、見ていたらしい。
何と言えばいいのか分からなかったので、何も言わなかった。
言わなかった三秒間、傘の中がやけに静かだった。
たまたま、と言った彼女の耳が、傘の影の中でも分かるくらい赤かった。
その耳を見ていたら、傘が消えた。
正確には、風で裏返った。
黒い傘は骨ごと反り返って、ただの棒になった。
雨が、真上から二人に落ちてきた。
「わ」
「走って」
バス停の屋根まで、十メートル。
走った。
走っている間に、二人とも頭から濡れた。
バス停の屋根の下で、二人で息をしていた。
裏返った傘は、直そうとしたら骨が折れた。
彼女の髪から、水が落ちていた。
前髪が額に貼りついて、教室で二番目と言われている、いつもの顔ではなくなっていた。
見るな、と思った。
思った時点で見ている。
「鐘ヶ淵くん。前髪」
「前髪?」
「垂れてます。目に入ります」
彼女がハンカチを出して、僕の額に当てた。
近い。
息が止まるくらい近い。
実際、止めた。
ハンカチは僕の前髪を横に押しやって、額を拭いて、それから、止まった。
止まったまま、彼女が僕の目を見ていた。
「……何条でしたっけ」
「何が」
「濡れた我を、汝が拭く条文。……我が鐘ヶ淵くんで、汝が私です」
「ない」
「あります。たぶん。私の解釈で」
「解釈権は書いた者にある」
「書いた者は今、前髪が邪魔で規約が読めません」
言い返せなかった。
前髪のせいじゃない。
彼女の手が離れて、僕は息を再開した。
顔が熱い。
雨に濡れたばかりなのに。
熱いのを隠すために、目を逸らした。
逸らした先に、彼女の鞄があった。
鞄の横から、水色が出ていた。
走ったせいで、押し込んだ折りたたみ傘が、元の位置まで戻っていた。
彼女も気づいた。
僕が見ているものに気づいて、自分の鞄を見て、それから、僕を見た。
「……あ」
沈黙。
バスの時刻表が、風で少し揺れた。
「傘、ありましたね」
「これは、予備です」
「予備」
「規約の予備です。使う予定はありませんでした」
「朝から雨だった」
「予備の予備です」
「予備が増えた」
「……負けません」
何にだ。
傘の話だ。
負けませんと言った人が、負けた顔で水色の傘を取り出して、開いた。
開いた傘は、小さかった。
一人用の、いちばん小さいやつだった。
「鐘ヶ淵くん。傘、壊れましたよね」
「壊れた」
「じゃあ、今、傘は一本です」
「そうなる」
「第二十三条により」
彼女は自分で言って、自分で赤くなった。
赤くなったまま、小さい傘を、僕のほうに差し出した。
差し出されたので、持った。
持つと、彼女は僕の左側に入ってきた。
さっきより近い。
傘が小さいので、近くないと二人とも濡れる。
肩が当たった。
当たったまま、離れなかった。
濡れた髪から、シャンプーの匂いがした。
傘が小さいせいだ。
小さい傘のせいにしておいた。
歩き出して、すぐに彼女の右肩が傘から出た。
「近くないと、濡れるので」
そう言って、彼女は僕の袖を掴んだ。
袖を引かれると、腕が勝手に彼女の側に寄った。
寄った腕に、彼女の腕が当たった。
制服越しなのに、当たっているところだけ、温度が違った。
「……袖です。手じゃないです。第十二条には、触れてません」
「袖は身体じゃない、という解釈か」
「はい」
「書いた者は認めていない」
「じゃあ、認めてください」
認めた。
声には出さなかったが、袖を引く手を離させなかったので、認めたことになる。
規約を使わない作戦はどこへ行った。
使わないどころか、今日いちばん規約を使っているのは彼女だ。
僕は傘を、左に傾けた。
今度は癖じゃなかった。
「……また濡れますよ、右の肩」
「規約だ」
「本文、読めないのに」
「読めないけど、そう書いてある気がする」
気がする、で条文を作った。
書いた者の特権だ。
彼女は答える代わりに、袖を掴んでいないほうの手で、僕の右肩に濡れたハンカチを当てた。
濡れたハンカチで濡れた肩を拭いても、何も乾かない。
乾かないことを、二人とも知っていて、そのまま駅まで歩いた。
駅までの信号三つが、今日は短かった。
短いと思ったのは、初めてだった。
改札の前で、彼女は傘を受け取った。
受け取ってから、しばらく傘を見ていた。
「明日も雨だそうです」
「らしい」
「鐘ヶ淵くんの傘、壊れましたよね」
「壊れた」
「じゃあ、明日も、一本です」
言ってから、彼女は傘で顔を隠した。
畳んだ傘なので、隠れていなかった。
耳まで赤いのが、全部見えていた。
「規約です」
「規約だな」
「火曜日まで、あと五日です」
「数えてるのか」
「数えてます。鐘ヶ淵くんは」
「数えてる」
「……そうですか」
彼女は改札を抜けて、振り返らずに手を振った。
振ったあと、その手で自分の耳を押さえたのが、後ろからでも分かった。
電車の中で、袖を見た。
彼女に掴まれていたところに、皺が残っていた。
伸ばそうとして、やめた。
もう少しだけ、このままにしておきたかった。
僕の傘は、壊れた。
骨が三本折れて、もう開かない。
それなのに、駅のゴミ箱の前を二回通って、二回とも捨てられなかった。
さっきまで、二人で入っていた傘だったからだ。
明日は、最初から一本しかない。
規約を使わない作戦は、明日から始めることにした。
たぶん明日も、三十秒で終わる。




