第九話 つーくんと呼ぶ人
月曜日は、雨だった。
僕の傘は木曜に壊れた。
だから今朝、僕が差しているのは、水色の小さい折りたたみ傘だ。
男が差すには小さい。
色もかわいすぎる。
すれ違う小学生に二度見された。
改札の外に、百舌鳥囁が立っていた。
手ぶらだった。
「傘、忘れました」
木曜と同じ台詞だ。
でも今日は、耳が赤くない。
「本当に忘れたな」
「はい。今日は、本当です」
彼女は少し得意そうだった。
本当のことを言うのが、そんなに嬉しいのか。
土曜、うちの傘立てにわざと置いていったくせに。
僕、鐘ヶ淵綴は、それを言わなかった。
言わずに、水色の傘を彼女のほうへ傾けた。
彼女は左側に入って、僕の袖を掴んだ。
掴んでから、指を一本、立てた。
「あと、一日です」
声が、先週より小さかった。
「……そうだな」
それきり、二人とも黙った。
傘が小さいので、黙っていても近い。
明日、何があるのか。
二人とも知っていて、二人とも言わない。
言わないまま、あと一日になった。
昼休み。屋上に出る階段の踊り場。
「友達の話なんだが」
「鐘ヶ淵に友達は私しかいないだろ」
五月雨式部は、焼きそばパンをくわえたまま即答した。
否定できない。
「……友達の話として聞いてくれ」
「おう」
「終わる日が決まっているものを、終わらせたくないとき、人はどうする」
五月雨は腕を組んで、三秒考えた。
「延長コードを買う」
「電気の話じゃない」
「課金する」
「ゲームの話でもない」
「じゃあ私にしとけ」
なんでそうなる。
「私は期限なしだぞ。入学式から世界一好きだ。更新料もいらない」
「ありがとう。気持ちだけ、風紀委員室の棚に保管しておく」
「保管すんな! 使え!」
五月雨は焼きそばパンを飲み込んで、急に真顔になった。
「っていうかさ。終わる日って、誰が決めたんだよ」
「……書いた人間じゃない誰かだ」
「じゃあ、書けばいいだろ」
「何を」
「続きを。お前、書くの得意じゃん。規約でも何でも、終わりが気に入らないなら、書き足せよ」
僕は、返事ができなかった。
的外れなことしか言わない友人が、一年に一回だけ、真ん中を撃ち抜いてくる。
今日がその日だった。
「……五月雨」
「おう」
「お前、たまにすごいな」
「だろ! 惚れたか!」
「惚れてはいない」
「そこは迷えよ!」
「あ、つーくんだ」
階段の下から、のんびりした声がした。
つーくん。
この学園で、僕をそう呼ぶ人間は一人しかいない。
鶯谷詠。
隣のクラス。家が近所で、幼稚園から一緒の、幼馴染だ。
「つーくん、彼女できたんだってねえ。おめでとう」
「……どこで聞いた」
「みんな言ってるよ。よかったねえ。つーくん、ずっと一人で帰ってたから」
悪気はない。この人に悪気があったことは、十四年間で一度もない。
問題は、そこじゃなかった。
鶯谷のうしろに、百舌鳥さんが立っていた。
弁当箱を二つ、持っている。
いつからいた。
今日も、いつからいたんだ、この人は。
「……つーくん」
百舌鳥さんが、小さく復唱した。
笑顔だった。
踊り場の温度が、二度下がった。金曜にも下がった気がする。
「鐘ヶ淵くん。第七条は」
「〔呼称〕。互いを苗字で呼ぶ。でもあれは我と汝の話だ。鶯谷は当事者じゃない」
「当事者じゃない人が、下の名前で呼んでいるんですね」
「下の名前ですらない。つーくんは、あだ名だ」
「もっと近いじゃないですか」
負けた。自分で傷を広げた。
「わあ、この子が彼女さん? かわいいねえ」
鶯谷が、にこにこと百舌鳥さんを見た。
百舌鳥さんは、聞こえなかった顔をした。
土曜は、できなかったくせに。
「あ、そうだ。つーくんに伝言」
鶯谷は胸ポケットからメモ帳を出して、さらさらと何か書いた。
ちぎって、僕に渡す。
今度の日曜、お母さんが煮物もってくって。
丸い字だった。
角がひとつもない、ころころした字。
見たことのある丸さだ、と思った。
どこで見たのかは、思い出せなかった。
「じゃあねえ、つーくん。彼女さんも」
鶯谷は手を振って、階段を下りていった。
百舌鳥さんは、僕の手の中のメモを見ていた。
一秒。二秒。
見ている時間が、少し長かった。
「百舌鳥さん?」
「……なんでもないです。お弁当、作りすぎたので」
弁当箱を一つ、押しつけられた。
作りすぎた人は、弁当箱を二つ用意しない。
「おい百舌鳥! 鐘ヶ淵の昼は私と焼きそばパンって決まってんだぞ!」
「五月雨さん。第二十七条〔手作リ弁当ノ評価基準〕があります」
「だから何でお前らは読めない条文で戦うんだよ!」
それは、今日も思った。
帰りも雨だった。
水色の傘に、二人で入る。
彼女は駅の手前まで、ずっと黙っていた。
信号を二つ過ぎたところで、やっと口を開いた。
「鶯谷さんは、いつから、つーくんなんですか」
「幼稚園」
「……負けません」
「何に」
「年数に」
年数には勝てないだろう、と言いかけて、やめた。
彼女が、袖を掴む手に力を入れたからだ。
「私は、鐘ヶ淵くんを、鐘ヶ淵くんと呼びます」
「知ってる」
「濁らせずに。ケを小さく。誰よりも正確に」
彼女は前を向いたまま言った。耳が赤い。
「あだ名より、正確なほうが、近いと思うので」
顔が熱くなった。
苗字を呼ばれただけだ。
月曜の夜から、毎日呼ばれている苗字だ。
なのに今日は、つーくんの百倍、近くで呼ばれた気がした。
改札の前で、彼女は傘から出た。
指を、一本立てた。
その指が、少し震えていた。
「鐘ヶ淵くん。明日、話があります」
「……僕もある」
彼女は一瞬、目を大きくした。
それから、うなずいて、改札を抜けた。
今日は、手を振らなかった。
家に帰って、鞄から黒いノートを出した。
終わりが気に入らないなら、書き足せ。
五月雨はそう言った。
でも、このノートは増えない。
全百条。中二の僕が、そう決めた。
ページをめくる。
第九十九条〔解消〕。
月曜の夜、この見出しを読んで、僕は安心した。
出口がある、と思ったからだ。
一週間たった。
今は、その出口が、いちばん怖い。
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