第十話 本文を読ませてください
「本文を、読ませてください」
玄関のドアを開けたら、いきなりそう言われた。
月曜日、午後七時十二分。
雨は、まだ降っている。
門の外に、百舌鳥囁が立っていた。
制服のまま。手には、ビニール傘。
コンビニで売っている、透明なやつだ。
「……傘、あるじゃないか」
「買いました。忘れたので」
「今日のは、本当に忘れたんだったな」
「はい。なので、買いました。これも本当です」
本当のことを二つ並べて、彼女は少し得意そうだった。
僕、鐘ヶ淵綴は、ドアノブを握ったまま固まっていた。
一時間前に、改札で別れた人だ。
「明日、話があります」と言って、手を振らずに帰った人だ。
その人が、うちの門の前にいる。
「本文って、何の」
「交際規約の、です」
彼女の目が、僕の左手に下りた。
黒いノートを持ったままだった。
さっきまで、第九十九条のページを開いていた。
慌てて閉じた。
閉じる音が、雨の中でやけに大きかった。
「上がって。濡れるだろ」
「上がりません」
即答だった。
「今日は、平日なので」
平日だと何なのか、と聞きかけて、やめた。
土曜に僕の頭に浮かんだ数字を、彼女も覚えているらしい。
耳が、もう赤い。
結局、彼女は玄関の屋根の下まで来て、そこで止まった。
僕はドアの内側。彼女は外側。
ドア一枚ぶんの距離で、交渉が始まった。
「先週の月曜から、見出しの解釈で、私は何回負けましたか」
「数えてない」
「六回です」
「数えてたのか」
「数えてます。負けた数は、全部」
彼女は透明な傘をたたんで、まっすぐ僕を見た。
「七回目は、ありません。負けません」
目元が、ぴくっと動いた。
二番目と言われたときと、同じ顔だ。
「鐘ヶ淵くんは、見出しを読んで、好きな意味をつけます。私は本文が読めないので、言い返せません」
「それが規約だ」
「なので、本文を読みます。一晩、貸してください」
一晩。
このノートを、三年間、一晩も手放したことがない。
「無理だ。中二の僕の黒歴史だぞ」
「表紙に書いてあります」
「何が」
「『閲覧者は、汝の魂をもって同意したものと見なす』」
彼女は、表紙を見ないで言った。
先週の月曜の夜に、一回読んだだけのはずだ。
「閲覧者、と書いてあります。読む人がいることを、書いた者は分かっていました」
「それは脅し文句だ。中二の」
「意味は、書いた者が決めるんですよね」
「そうだ。解釈権は書いた者にある」
「『この規約の意味は、書いた者が決める』です」
訂正された。一字一句。
「決めるのは、意味だけです。読むのを禁止する条文は、ありません」
ない。
少なくとも、見出しには、ない。
「……本文にあったら、どうする」
「それを確かめるために、読みます」
ぐうの音も出ない、という言葉を、生まれて初めて体で理解した。
ぐ、すら出なかった。
「風紀委員の本分としては」
「本文の話をしています」
「本分の話をしようとしたんだ」
「同じ音で逃げないでください」
逃げ道を、音ごと塞がれた。
「……なんで今日なんだ。明日でもいいだろ」
彼女の耳が、先に赤くなった。
嘘をつく前の、赤さだ。
「パズルが好きなだけです。好きなだけです」
二回言った。
明日、話がある。
その前の晩に、本文を読んでおきたい。
理由は、明日の話とつながっているはずだ。
どうつながっているのかは、僕には分からなかった。
分からないまま、ノートを差し出していた。
彼女が受け取る。
表紙の端で、彼女の指が、僕の手の甲に重なった。
冷たかった。
雨の中を歩いてきた指だ。
彼女は、すぐには離さなかった。
一秒。
それから、ノートごと、両腕で抱えこんだ。
「……大事にします」
「借りるだけだろ」
「借りるだけなので、大事にします」
声が、少し震えていた。
寒いからだと思う。寒いからだということにした。
「ちょっと待ってて」
洗面所から、タオルを取ってきた。
ドア越しに渡すと、彼女は濡れた前髪を拭いて、それから、タオルに顔をうずめた。
「……鐘ヶ淵くんの家の匂いがします」
「柔軟剤だ」
「はい。柔軟剤の匂いです」
顔の下半分が、タオルで隠れている。
隠れていない目元が、笑っていた。
木曜、バス停で、濡れた僕の前髪を拭いたのは彼女だった。
今日は、拭くものを渡しただけだ。
渡しただけなのに、顔が熱い。
「それ、返さなくていいから」
「返します。借りたものは、全部返します。ノートも、タオルも」
貸しにしておく、と言うつもりだった。
言う前に、全部返すと言われた。
「分からないところがあったら、聞いてもいいですか」
「僕は本文が読めないんだぞ」
「見出しは読めます。それに」
彼女は、スマホを出した。
「鐘ヶ淵くんの連絡先を、まだ知りません」
そうだった。
一週間、毎日一緒に帰って、傘に入って、家にまで来たのに、電話番号を知らない。
規約には、書いてなかった。
番号を交換した。
彼女が僕の名前を登録するのを、横から見ていた。
鐘ヶ淵。
「ヶ」のところで、彼女は一度、大きい「ケ」を出した。
すぐに消して、小さい「ヶ」に直した。
「そこまで正確にしなくても」
「します。誰よりも正確に、と言ったので」
画面に、小さい「ヶ」の、僕の苗字が並んだ。
自分で打つときより、ちゃんとしていた。
「これで、夜も話せますね」
「……話すことがあるならな」
彼女は答えずに、透明な傘を開いた。
門のところで、一度だけ振り返る。
ノートを抱えた腕に、ぎゅっと力が入ったのが見えた。
「明日、朝、改札で返します」
「ああ」
「あと、水色の傘も持ってきてください。明日も、雨なので」
それだけ言って、雨の向こうに帰っていった。
部屋に戻って、鞄を持ち上げた。
軽かった。
三年間、ずっと入っていたものが、入っていない。
中二の一年を覚えていない僕にとって、あのノートは、その一年の中身の全部だった。
それを今、彼女が抱えて、雨の中を歩いている。
右手の甲を見た。
冷たい指が、重なった場所だ。
とっくに乾いているのに、そこだけ、まだ雨の温度が残っている気がした。
怖かった。
本文に何が書いてあるのか、書いた僕だけが知らない。
それを、明日の前の晩に、彼女が先に読む。
それなのに、渡したことを、少しも後悔していなかった。
宿題を開いて、閉じた。
風呂に入って、出た。
スマホを三回見た。三回とも、何も来ていなかった。
十一時ちょうど。
スマホが震えた。
画面に、『百舌鳥囁』と出ている。
ルビも何もない、ただの四文字。
彼女の小さい「ヶ」に比べて、ずいぶん雑な登録だと思いながら、僕は通話のボタンを押した。
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