第十一話 毎夜二十三時に
「二十三時です」
電話に出た瞬間、それだけ言われた。
時報か。
「……こんばんは、でいいだろ」
「こんばんは。二十三時です」
「時刻はもう分かった」
百舌鳥囁の声は、いつもより小さかった。
「家族が、もう寝ているので」
さらに小さい声で、そう付け足す。
小さい声が、スマホを通して、耳のすぐ横で鳴る。
教室でも、傘の下でも、こんなに近くで彼女の声を聞いたことはない。
僕、鐘ヶ淵綴は、ベッドの上で正座していた。
なぜ正座なのかは、僕にも分からない。
分からないが、足を崩したら負ける気がした。
「それで、分からないところは」
「ありません」
「……ないのか」
「解読、進んでいます。パズルは得意なので」
紙をめくる音がした。
僕のノートだ。
僕が三年間読めなかったノートが、電話の向こうで、すらすらめくられている。
「どうやって読んでるんだ。鍵は、僕も覚えてないんだぞ」
「言いません」
「なんで」
「言ったら、鐘ヶ淵くんも読めるようになるので」
「それの何が困る」
「困ります。負けるので」
負けず嫌いが、夜の十一時にも出勤している。
「じゃあ、なんで電話してきたんだ」
「読めたので」
「何が」
「第四十一条です」
めくる音が止まった。
彼女が、小さく息を吸うのが聞こえた。
「第四十一条〔定時連絡〕。我と汝は、毎夜二十三時に、声を交わすべし」
一拍。
「……我が鐘ヶ淵くんで、汝が私です」
言い換えなくても分かる。
分かるのに、彼女は毎回言う。言うたびに、声が少しずつ小さくなる。
「なので、二十三時に電話しました」
さっきの時報は、これか。
あれは挨拶じゃなかった。規約の履行だった。
「待て」
僕は正座のまま、背筋を伸ばした。
ここで引いたら、毎晩これが続く。毎晩、耳のすぐ横で、この声が鳴る。
それは困る。
困る理由は、考えないことにした。
「見出しは〔定時連絡〕だ。連絡だぞ。連絡なら、メッセージでいい。スタンプ一個でいい」
「本文に、声、と書いてあります」
「声の意味は、書いた者が決める」
「はい」
「猫のスタンプが、にゃあと言っている。あれは声だ」
「スタンプは、しゃべりません」
「心の中でしゃべってる」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
「では、私も、心の中の声でお返事します」
「おう」
何も聞こえなかった。
「……聞こえない」
「そういうことです」
負けた。
自分の屁理屈に、正面から負けた。
「これで七回目ですね。鐘ヶ淵くんが負けたのは」
「僕のほうも数えてるのか」
「数えてます。勝った数も、全部」
僕は、机の上のプリントを裏返した。
鉛筆で、今聞いた本文を書き写す。
我と汝は、毎夜二十三時に、声を交わすべし。
明日、ノートが返ってきたら、この一文と、あの読めない字を並べてみる。
彼女が読めたのなら、僕にも読めるはずだ。書いたのは僕なのだから。
「何か、書いてますか」
「書いてない」
「鉛筆の音がしました」
「……書いてた」
耳がいい人だ。
耳まで赤くなる人は、耳もいいのかもしれない。
書き写した一文を、もう一度読んだ。
読んで、手が止まった。
毎夜。
「百舌鳥さん」
「はい」
「毎夜、って書いてあるんだな」
「はい」
「いつまで、とは」
「……書いてありません」
彼女の声が、また一段小さくなった。
一週間、と誰かが決めた。
明日で、一週間になる。
この条文は、明日の夜のことも、その次の夜のことも、同じ「毎夜」で縛っている。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
電話の向こうで、雨の音がしている。こっちでも、同じ雨の音がしている。
同じ雨を、二か所で聞いている。
それだけのことが、なぜか、声を聞くより近かった。
「……第九十九条は、読んだか」
聞くつもりはなかった。
口が、先に聞いていた。
「まだです」
すぐに返ってきた。
「まだです」
二回だった。
電話だから、耳は見えない。
赤いかどうか、僕には確かめようがない。
それなのに、嘘だと分かった。
何が書いてあった、とは聞けなかった。
書いたのは僕なのに、僕だけが知らない。
知るのが、怖かった。
「鐘ヶ淵くん」
彼女が、名前を呼んだ。
家族を起こさないための、息の混じった声で。
耳のすぐ横で。
僕の手からスマホが滑って、布団の上に落ちた。
慌てて拾う。
「……今、何か落としましたか」
「落としてない」
「ぼすっ、と音がしました」
「布団が、自分で鳴った」
「布団は、鳴りません」
彼女が、小さく笑った。
笑い声まで、囁く音量だった。
名前のとおりの人だ、と思った。
思っただけで、顔がどうしようもなく熱かった。
「それで、何だ」
「第四十一条には、続きがあります」
紙が、一枚めくれる音。
「先に眠った者は、翌日、相手の願いを一つ叶える」
僕は時計を見た。
二十三時四十一分。
「……つまり」
「先に寝たら、負けです」
負けです、のところだけ、声が大きくなった。
家族は、たぶん起きなかったと思う。
「僕は、寝るのは遅いほうだ」
「私も、遅いほうです」
「クロスワードで夜更かしするのか」
「します。鐘ヶ淵くんは」
「校則の条文を、頭の中で一から順に読む」
「それは、寝るための方法じゃないですか」
ばれた。
正座を、そっと崩した。
長くなる。今夜は、たぶん長くなる。
「負けません」
囁く声で、彼女はそう言った。
時計が、零時を回った。
どちらも、まだ切らなかった。
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