第十二話 先に眠ったほうの負けです
「鐘ヶ淵くん。起きてますか」
「起きてる」
「私もです」
零時十五分。三回目の確認だった。
百舌鳥囁は、十五分おきに僕の生存を確かめてくる。
僕、鐘ヶ淵綴も、十五分おきに生きていると答えている。
第四十一条。先に眠った者は、翌日、相手の願いを一つ叶える。
この一文のせいで、僕たちは今、眠気と戦う同盟を組んでいる。
同盟なのに、敵同士だ。
「何か、話してください。黙っていると、眠くなるので」
「規約の話か」
「規約以外で」
土曜と同じことを言われた。
土曜の僕は、プリンがうまいとしか言えなかった。
「……クロスワードは、なんで好きなんだ」
「マスが全部埋まると、頭の中が静かになるので」
「それは前にも聞いた」
「はい。前にも言いました」
「じゃあ、それ以外で」
電話の向こうで、布団のこすれる音がした。
寝返りを打ったらしい。
「……埋まらないマスがあると、ずっと気になるんです。お風呂でも、授業中でも」
「一マスでも?」
「一マスでも。一マスだと、余計に」
打ち上げの夜、彼女は最後の一マスで止まって、罰ゲームになった。
その話を、僕は蛇ノ目から聞いたわけじゃない。
あの夜、同じファミレスにいて、知っているだけだ。
だから、言わなかった。
「解読も、そういう感じか」
「はい。今夜、ほとんど埋まりました」
「ほとんど?」
「一か所だけ、時間がかかりました」
声が、少しだけ慎重になった。
「どこだ」
「言いません」
「なんで時間がかかった」
「そこだけ、字が違ったので」
角ばった字と、丸い字。
先週の月曜の夜、彼女が最初に気づいたことだ。
「中二の僕は、字が安定しなかったんだ」
「……はい。そうでしたね」
そうでしたね、の言い方が、少しだけ引っかかった。
引っかかったのに、眠気のほうが先に来て、どこが引っかかったのか分からなくなった。
「鐘ヶ淵くん。起きてますか」
「起きてる」
「私もです」
零時四十五分。
声が、さっきよりゆっくりになっている。
彼女の声も。たぶん、僕の声も。
「顔が見えないので、聞いてもいいですか」
「何を」
「土曜の。……もう一回、言ってください」
何を、とは聞かなかった。
聞かなくても、分かった。
顔が見えない。
見えないから、言える。見えないから、言えない。
どっちなのか、自分でも決められないまま、口が動いた。
「……かわいい」
電話の向こうが、静かになった。
布団の音も、しなくなった。
「百舌鳥さん?」
「……聞こえました」
「そうか」
「今のは、ちゃんと、聞こえました」
二回言った。
嘘をつくときの癖のはずなのに、今のは嘘じゃなかった。
嘘じゃないときにも二回言うのだと、初めて知った。
「鐘ヶ淵くんも、顔、見えませんよ」
「僕は何も言わないぞ」
「言わなくていいです。私が言います」
息を吸う音がした。
「鐘ヶ淵くんの声は、電話のほうが、低いです」
「……それは感想だろ」
「感想です」
「好きとか嫌いとかは」
「好き、とは言ってません」
言っていない。
言っていない、と、わざわざ言った。
「言ってません。言ってません」
二回。
電話だから、耳は見えない。
見えないのに、今どれくらい赤いのか、分かる気がした。
僕の耳も、たぶん同じくらい赤い。
「鐘ヶ淵くん。起きてますか」
「起きてる」
「わたしも、です」
一時二十分。
彼女の声が、ところどころ溶けている。
言葉と言葉のあいだが、どんどん長くなる。
「鐘ヶ淵くんの、願いは、何ですか」
「勝ってから考える」
「ずるい、です」
「百舌鳥さんのは」
「わたしも、勝ってから、言います」
それきり、返事がなくなった。
「百舌鳥さん」
返事はない。
代わりに、ゆっくりした息の音が聞こえた。
吸って、吐いて。雨の音より、少しだけ遅い。
寝た。
勝った。
勝ったのに、少しも勝った気がしなかった。
電話を切ろうとして、指が止まった。
「……かねがふちくん」
寝言だった。
寝ているのに、濁らなかった。
眠っていても、「ふち」は「ふち」のままだった。
切れなかった。
スマホを枕の横に置いて、天井を見た。
耳のすぐ横で、彼女が眠っている音がする。
土曜のクロスワード。ドア越しのタオル。今夜の「言ってません」。
目を閉じると、起きた順番を無視して、全部が一度に戻ってくる。
止めようとすると、今度は寝息のほうが大きく聞こえる。
願いを、一つ。
明日、彼女は改札でノートを返す。
そして、話をする。
一週間で終わる、という話を。
明日の話を、しないでくれ。
そう頼めば、彼女はたぶん叶える。
規約だからだ。律儀な人だからだ。
僕はプリントの裏の、書き写した一文の下に、鉛筆でそれを書いた。
書いて、すぐに消した。
書いてあることは、裏切らない。
だから、書けなかった。
寝息が、ひとつ、深くなった。
僕は明かりを消して、切らないままの電話を、枕の横に置いた。
明日は、火曜日だ。
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