↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/26

第十三話 今日で一週間です

「返します」


 改札の前で、百舌鳥(もずどり)囁(ささやき)は、おはようより先にそう言った。

 雨の中、両腕で黒いノートを抱えている。

 その上に、きれいにたたまれたタオルが載っていた。


「おはよう」

「おはようございます。ノートと、タオルです」

「ああ、ありがとう」

「借りたものは、全部返す、と言いました」


 受け取ろうとして、気づいた。

 彼女の腕が、ノートを離さない。


 僕が引く。彼女も持っている。

 離すまでに、たっぷり二秒かかった。

 最後まで、指先だけが表紙に残っていた。


「……昨日より、重いか」

「重さを、確かめていただけです」

「増えてないか、確認か」

「増えてないか、確認です」


 どっちにしても、確認は要らない。

 そういうことにしておいた。


 タオルを受け取ると、僕の家の匂いがしなかった。


「洗ったら、私の家の匂いになりました」

「柔軟剤が違うからな」

「混ざった、ということです」

「洗剤の話だよな」

「洗剤の話です」


 彼女は、目をそらした。


「これも返す。土曜の忘れ物だ」


 水色の傘を、彼女に差し出す。


「忘れたんじゃありません。預けたんです」

「預かり証は」

「ありません。書いてないことも、たまには信じてください」


 言い返せなかった。

 書いてあることしか信じない、と決めたのは、去年の僕だ。


 彼女は傘を開いて、僕の頭の上に差し出した。


「今日は、私が持ちます」

「僕のほうが背が高いだろ」

「持つ人が、傾けるんです」


 傘が、僕のほうへ傾いた。

 いつも僕が、彼女にやっていることだった。

 彼女の右肩が、傘の外に出て、雨に濡れていく。


「肩が濡れてるぞ」

「知ってます」


 傾きは、直らなかった。


「鐘ヶ淵くん」


 彼女が、傘の柄をぎゅっと握った。


「今日で、一週間です」


 声が、いつもより硬い。

 指を立てようとして、やめたらしい。握った右手だけが、柄の上で小さく震えている。


「ゼロ、です」

「数えるのは、終わりか」

「終わり、ではないです。ゼロ、です」


 違いが分からない。

 分からないのに、笑えなかった。


「放課後、話があります。屋上に出る階段の、踊り場で」

「風紀委員室じゃなくていいのか」

「あそこは、誰かが来るので」

「……分かった」

「それと」


 彼女が、少し早口になった。


「昨夜は、私が先に眠りました。願いを一つ、叶えます。期限は、書いてありません」


 明日の話を、しないでくれ。

 喉まで来た。


「保留だ」

「分かりました。大事に、持っていてください」


 言わなかった。

 持っているだけで、少し息がしやすかった。


 一時間目は、数学だった。

 教科書を立てて、その陰で黒いノートを開く。


 右に、昨夜プリントの裏に写した一文。


 我と汝は、毎夜二十三時に、声を交わすべし。


 左に、第四十一条の本文。

 雨に濡れた楽譜の上を、猫が横切った跡だ。


 彼女の濡れた右肩が、まだ、まぶたの裏に残っていた。

 振り払って、記号の列を睨む。


 一文字ずつ、当てはめる。

 「我」。「汝」。「べし」。

 「と」も、「は」も、「に」も、「を」も分かった。


 三年間、一文字も読めなかったものが、一文字ずつ、僕の字に戻っていく。

 書いたのは僕だ。中二の僕が、僕にだけ分かるように崩した字だ。

 崩し方の癖は、どのページでも同じ形で出てきた。


 ノートの終わりに近いページを開く。

 第九十九条〔解消〕。

 見出しの下に、本文が三行ある。


 読める字だけ、拾った。

 「我と汝」。「二」。「べし」。


 あとは読めない。

 読めないが、余白に、見たことのないものがあった。


 小さい四角が、二つ並んでいる。

 左の四角には「我」、右の四角には「汝」と書いてある。

 下に、線が引いてある。名前を書く線だ。


 三年間、本文ばかり睨んでいて、余白は見ていなかった。


 署名欄だ。


 残りの字は、この欄が教えてくれた。

 三行のうち、上の二行が、読めた。


 我と汝が別れるときは、二人とも名を書くべし。

 一人だけが書いても、別れたことにならず。


 三行目は、まだ読めない字ばかりだった。


 教科書のページをめくる音で、我に返った。


 二人とも書かなければ、終わらない。

 僕が書かなければ、彼女がどれだけ「一週間」と言っても、終わらない。


 月曜の夜、この条文は出口だと思った。

 出口ではなかった。鍵が二つある扉で、その鍵の一つを、僕が持っている。


 ずるい、と思った。

 思ったが、書いてあることは裏切らない。書いてあるなら、使う。


 そして、彼女は、これを読んでいる。

 昨夜の「まだです」は、二回だった。

 終わらないと知っていて、それでも今朝、「話があります」と言った。


 何を話すつもりなのか。

 それが、分からなかった。


 黒板の数式は、一問も頭に入らなかった。


 放課後の、屋上へ出る階段の踊り場。

 鍵のかかった扉の向こうで、雨が屋根を叩いている。


 百舌鳥は、二段下に立っていた。

 傘は持っていない。両手は、体の前でぎゅっと重なっている。


「鐘ヶ淵くん。今日が、期限です」

「機嫌なら、悪くない」

「期限です。ふざけないでください」

「今のは、言い間違いだ」

「わざとでしたね」

「わざとだ」


 彼女が、ほんの少しだけ、口の端を上げた。

 すぐに戻った。


「一週間で、終わりです。そういう、約束で」


 言葉が、途中でほどけた。

 彼女は息を吸って、言い直す。


「私は、最初から」

「第九十九条」


 僕は、ノートを開いた。

 開く前から、そのページには折り目をつけてあった。


「第九十九条〔解消〕。我と汝が別れるときは、二人とも名を書くべし。一人だけが書いても、別れたことにならず」


 彼女の目が、大きくなった。


「……読めたんですか」

「昨夜写した第四十一条の字と、並べた。鍵は、中二の僕の字の癖だった」

「一晩で」

「一時間目で」

「授業は」

「教科書の陰でやった。今日だけは、僕が違反者だ」


 彼女の目元が、ぴくっと動いた。

 悔しそうな顔になって、笑顔に戻そうとして、失敗した。


「……私の負けです。七回目です」

「七回目は、ないんじゃなかったのか」

「ありました」


「余白に、署名欄があった。四角が二つ」

「知ってます」

「書名じゃないぞ。署名だ」

「書名なら、もう書いてあります。『刻印ノ書』です」

「それは、ノートの名前だ」


 二人とも、ほんの少しだけ、笑った。

 笑ってから、雨の音が大きくなった。


「僕は、書かない」


 彼女が、顔を上げた。


「別れる条文に、名前を書く気はない。一人だけが書いても、別れたことにならない。だから僕が書かなければ、この規約は終わらない」

「それは」

「書いてあることは、裏切らない。書いてあるんだから、使う」

「……ずるいです」

「解釈権は、書いた者にある」

「今のは、解釈じゃないです。ただの、居座りです」


 彼女は、しばらく下を向いていた。


「……私も、書きません」


 小さい声だった。

 二回は、言わなかった。


「じゃあ、なんであんなに硬い顔で、話があると言ったんだ」

「言えなくなったので」

「何を」

「言いません」


 彼女は、重ねていた両手を、そっとほどいた。


 右の手のひらに、爪の跡が四つ、赤く残っていた。

 今朝から、ずっと握っていたのだ。


「……痛くないのか」

「痛いです。でも、握っていないと、言ってしまいそうだったので」


 何を、とは、また聞けなかった。


 そのとき、階段の下から足音がした。

 一段ずつ、急がない足音。


「七日目、おめでとう」


 蛇ノ目(じゃのめ)傘音(かさね)が、踊り場を見上げていた。

 スマホを、胸の前で持っている。画面は、こっちを向いていない。


「百舌鳥。クリアした?」

「……まだ、です」

「まだです、って、二回言わないの?」

「まだです。……まだです」


 言わされた。


 蛇ノ目が、僕のほうを見た。


「規約くん。私は、『クリアしたら』とは言ったけど、何を、とは言ってないよ」


 笑っている。

 嘘をつかない人の、笑い方だった。


 僕はノートを閉じた。

 閉じた音で、百舌鳥の肩が、小さく跳ねた。


――――――――――

お読みいただき、ありがとうございます。

続きが気になったら、フォローと★で応援していただけると励みになります。

毎日12時と20時に更新しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。