第四話 第三条により開示を禁止する
今日の作戦は一つだけだった。
誰にも気づかれずに、一日をやり過ごす。
百条の規約に同意された翌朝、僕はそれだけを考えて校門をくぐった。
彼女はクラスで二番目にかわいい女子で、僕は風紀委員だ。
教室では席が三つ離れている。
黙っていれば、誰も気づかない。
教室に入った瞬間、三十人分の視線が僕に集まった。
作戦は、鞄を置く前に終わった。
「鐘ヶ淵くん、おはよう」
百舌鳥囁が、僕の席の横に立っていた。
昨日までの彼女は、教室の反対側で友達と笑っている人だった。
僕の席に来たことは一度もない。
その彼女が、全員の見ている前で、僕の名前を呼んだ。
「……おはよう」
誰かが「マジだ」と言った。
誰かが「規約って何」と言った。
規約って何、まで広まっている。
僕、鐘ヶ淵綴は、犯人を探した。
探すまでもなかった。
窓際の席で、蛇ノ目傘音がこっちを見て笑っている。
百舌鳥さんの友人グループのリーダーで、クラスで一番かわいいと言われている人で、昨夜のファミレスで、僕の名前を出した人だ。
一番が、二番目に罰ゲームをさせた。
そう書くと、ずいぶん分かりやすい。
罰ゲームは、みんなに見せてこそ罰ゲームだ。
百舌鳥さんは、笑っていた。
完璧な笑顔だった。
クラスで二番目にかわいい人の、いつもの顔だった。
いつもの顔、と言えるくらいには、僕はこの顔を見てきた。
廊下で男子に声をかけられるとき。
先生に褒められるとき。
誰かに「かわいい」と言われて、聞こえなかったふりをするとき。
この笑顔は、彼女が何も答えたくないときの顔だ。
ただ、机に置いた左手の指が、白くなるまで机の端を掴んでいた。
見てしまった。
見なければ、今日は「やり過ごす」だけで済んだのに。
「ねえねえ百舌鳥さん、いつから?」
前の席の女子が来た。
「昨日の夜、です」
「どっちから?」
「私から」
「えっ、百舌鳥さんから!? 鐘ヶ淵に!?」
鐘ヶ淵に、の言い方が失礼だ。
今はそこじゃないが、失礼だ。
女子が三人になり、五人になった。
男子も来た。
「手ぇ繋いだ?」
「まだ、です」
「なんで鐘ヶ淵?」
「それは」
百舌鳥さんが、口を開いた。
開いて、止まった。
当たり前だ。
理由なんてない。
罰ゲームだから僕を選んだ、とは言えない。
笑顔は崩れていないのに、机の端を掴む指が、さっきより白い。
僕は、嘘の告白だと知っている。
知っているから、ここで「百舌鳥さん、無理しなくていい」と言えば終わる。
彼女は解放されて、僕は元の風紀委員に戻る。
それが一番、お互いに安い。
ただ、僕はこの顔を知っていた。
全員に見られて、答えを持っていなくて、それでも笑っていなければいけない顔。
去年、プリンの話をしたときの、僕の顔だ。
あのとき誰かが質問を引き取ってくれていたら、僕は校則を全条暗記しなくて済んだかもしれない。
そう思っていたのに、口から出たのは別の言葉だった。
「規約で決まってる」
全員が僕を見た。
「規約?」
「交際規約。第三条により、当事者以外への開示は禁止されている。理由も、経緯も、手を繋いだかどうかも」
鞄から黒いノートを出して、表紙だけ見せた。
閲覧者は、汝の魂をもって同意したものと見なす。
教室が、一秒だけ静まった。
「……何それ」
「風紀委員こわ」
「契約結婚?」
「中二病じゃん」
笑いが起きた。
僕に向かっての笑いだった。
百舌鳥さんに向かってではなく。
それでいい。
「なんで鐘ヶ淵?」は「鐘ヶ淵だからか」に変わった。
変な奴と付き合っている、なら、理由はいらない。
「じゃあ百舌鳥さん、この規約に同意したの?」
「しました」
「百条あるんだよね?」
「百条、全部」
「うわ」
うわ、と言われて、百舌鳥さんが少し笑った。
さっきまでの完璧な笑顔じゃない、口の端だけの笑いだった。
机の端を掴んでいた指が、緩んだ。
僕はそれも見てしまった。
見て、庇ってよかった、と思ってしまった。
思うな。
作戦は「やり過ごす」だ。
庇うのは作戦にない。
二時間目のあと、後ろから襟を掴まれた。
「鐘ヶ淵」
五月雨式部。
同じクラスで、僕の友人で、女子で、僕の本命を自称している人物である。
「聞いたぞ。規約で彼女を作ったって」
「作ってない。同意されただけだ」
「同じだろ。鐘ヶ淵、私の目を見ろ」
見た。
怒っている。
今日は本気で怒っている顔だ。
「そんな規約なんかやめろ」
「やめない」
「お前の本命は私だろ。入学のときから世界一好きだって言ってるだろ」
「言ってるのは五月雨だ」
「言われてるのはお前だ」
五月雨式部は、毎日これを言う。
言うけど、付き合おうとは言わない。
だから僕はこれを愛ではなく天気だと思って受け流している。
今日は晴れ、五月雨は世界一好き。
そういう日常だ。
その五月雨が、襟を掴んだまま、声を落とした。
「で、鐘ヶ淵。さっきの、庇ったな」
「庇ってない。規約だ」
「規約で、百舌鳥に集まってた質問を全部自分に持ってきただろ。あいつ、手が震えてた」
見ていたのか。
「私は本命だからな。お前の顔は見てるんだよ」
五月雨は襟を離して、自分の席に戻った。
戻る途中で、一度だけ振り返った。
「規約なんかやめろ。……でも、今日のはよかった」
どっちなんだ。
怒りに来たのか褒めに来たのか、どっちかにしてくれ。
三時間目のあと、「規約で決まってる」を二回使った。
「百舌鳥さんの下の名前、鐘ヶ淵は呼んでるの?」
「規約で決まってる」
「デートは?」
「規約で決まってる」
便利だ。
中二の僕、ありがとう。
三回目は、四時間目のあとだった。
「じゃあさ、百舌鳥さんは規約で鐘ヶ淵を好きになったの?」
「規約で決ま」
「違います!」
僕より速く、百舌鳥さんが言った。
全員が百舌鳥さんを見た。
僕も見た。
「違います。好きなのは、規約と関係、なく」
なく、で止まった。
止まってから、自分が何を言ったかに気づいた顔をした。
「……関係なくは、ないです。規約にも同意しましたので」
「どっち?」
「どっちも、です」
耳が赤い。
首まで赤い。
三回目で天丼が崩れた。
崩したのは僕じゃなくて、彼女だ。
嘘の告白の人が、「好きなのは規約と関係ない」と言ってしまって、真っ赤になっている。
嘘だと知っているのは僕と、窓際で腹を抱えている蛇ノ目だけだ。
彼女は、自分が今何を言ったか分かっていない。
いや、分かっている。
分かっているから赤い。
僕はこの状況を、どう解釈すればいいのか分からなかった。
解釈権は書いた者にあるはずなのに。
昼休み。
蛇ノ目傘音が、僕の席の前に立った。
「規約くん」
「僕のことか」
「うん。百舌鳥から聞いた。百条の規約に同意させたんでしょ。すごいね、私、そういうの好き」
「そういうの、とは」
「言い回しで人を動かすやつ」
蛇ノ目は笑っていた。
笑っているのに、目がどこを見ているのか分からない笑い方だった。
僕はこの笑い方を知っている。
鏡で見たことがある。
「朝の、面白かったよ。百舌鳥、助かったんじゃない?」
「規約を説明しただけだ」
「そっか。じゃあ、規約には期限とか書いてあるの? たとえば一週間、とか」
一週間。
昨夜、ドリンクバーの前で聞いた言葉だ。
「一週間付き合ったらクリア」。
蛇ノ目は、僕がそれを聞いたことを知らない。
知らないはずだ。
「期限の条文は、ない」
「ないんだ。じゃあ、ずっとだね」
「規約上は」
「規約上は、か。いいね、その言い方」
蛇ノ目は自分の席に戻りかけて、足を止めた。
「私、嘘はつかないよ。楽しみにしてる、とだけ言っておく」
何を、とは言わなかった。
昼休みの終わり、水を飲みに行った帰りに、階段の下で声を聞いた。
「一週間って言ってたよな」
「賭ける? 俺は三日で泣くと思う」
「どっちが」
「風紀委員のほう。あれ本気にしてるって」
「かわいそうだからやめとけよ」
「かわいそうって言いながら、お前もいちばん見てるじゃん」
三人いた。
三人とも、僕の知らない顔だった。
知らない顔に、僕の名前と、期限は知られている。
僕は階段を上がらずに、遠回りをして教室に戻った。
遠回りをした理由は、風紀委員としては説明できない。
五時間目の前、机の上に缶が置かれた。
コーンポタージュ。
温かい。
「昨日、熱いって言ってたので」
百舌鳥さんだった。
置いてから、自分の席のほうを向いて、向いたまま言った。
「熱いのが、好きなのかと思って」
「好きじゃない。昨日は間違えて押した」
「そうですか」
「そうですか、じゃない。じゃあなんで買ってきたんだ」
「……規約です」
「何条だ」
「読めないので、分かりません」
読めないので分かりません、で缶を買ってくる人がいるか。
缶は熱かった。
五月に、間違えてもいないのに、コーンポタージュを飲んだ。
飲みながら、彼女の背中を見た。
背中だけ見ても、耳が赤いのは分かった。
放課後。
鞄に手を入れたとき、視線に気づいた。
窓際の一番後ろ。
閂締。
風紀委員長で、僕の上司にあたる人物だ。
閂委員長は、僕の鞄から見えている黒い表紙を見ていた。
何も言わない。
五秒。
僕がファスナーを閉めると、委員長は窓の外に目を戻した。
それだけだった。
それだけなのに、叱られたときより背中が冷えた。
「鐘ヶ淵くん」
帰り道。
駅まで信号三つ。
昨夜と同じ自販機の前で、百舌鳥さんは足を止めた。
「朝の。どうして、あんなことを」
「規約を説明しただけだ」
「第三条は、我と汝の定義です。開示の禁止なんて、書いてないですよね」
「本文は読めない。読めないから、解釈権は書いた者にある」
「書いた者が、都合よく解釈したんですね」
「そうだ」
彼女はしばらく黙っていた。
自販機の明かりが、昨夜と同じように、顔の右半分だけを白くしていた。
「……ありがとうございました」
敬語が、深くなった。
「礼を言われることじゃない。規約の説明は書いた者の義務だ」
「そういうことにしておきます」
彼女が、少し笑った。
朝の、口の端だけの笑いだった。
「明日も、規約でお願いします」
「明日も」
「はい。私、鐘ヶ淵くんの規約、けっこう気に入ってるので」
そう言って、彼女は一歩、近づいた。
近い。
自販機の明かりが、二人ぶんの影を一つにした。
「襟。曲がってます」
朝、五月雨に掴まれたままだった。
彼女の指が、僕の襟を直した。
首の横に、指が二回、触れた。
直し終わっても、指はすぐには離れなかった。
「……第十二条」
僕の声が、半音上がった。
「身体的接触。本文は読めないけど、たぶん、我が汝に触れることの条文だと思います。……我が鐘ヶ淵くんで、汝が私です。私が鐘ヶ淵くんに触れることは、禁止されていません。たぶん」
「たぶんが多い」
「書いた者が読めないので」
彼女の手が離れた。
離れてから、耳が赤くなった。
「……直しただけです。襟が曲がっていたので。規約とは、関係ないです」
「今、自分で第十二条って言った」
「言ってません」
「言った」
「言ってません。言ったとしても、今のは、その、確認です」
自分でやっておいて、自分で赤くなって、自分で否定する。
今日三回目だ。
朝の「違います」、昼のコーンポタージュ、今の襟。
三回とも、否定する前に赤くなっている。
嘘が下手だ。
嘘の告白をした人が、こんなに嘘が下手でいいのか。
首の横が、まだ熱い。
触れられた二回ぶん、正確に。
二回だと数えている僕も、たぶん相当だ。
信号が青になった。
彼女は渡りかけて、途中で振り返った。
「鐘ヶ淵くん。来週の火曜日、予定を空けておいてください」
「火曜日に、何が」
「規約で決まってるので、言えません」
僕の言い方だった。
彼女は笑って、渡っていった。
来週の火曜日。
今日から数えて、ちょうど一週間。
嘘の告白だと、僕は知っている。
知っていて、今日、その嘘が続くように手を貸した。
一週間後に何が起きるのか、僕は知っている。
知っていて、どうするかは、まだ決めていない。




