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第二話 鳥まで読んでください

「第零条〔解釈権〕。この規約の意味は、書いた者が決める」

「書いた者って」

「僕」

「全部、鐘ヶ淵(かねがふち)くんの都合のいいように解釈される」

「そう。だから普通は、ここで帰る」

「帰りません」


 早い。

 まだ第零条だ。

 第零条で帰らないのは想定内だ。

 想定内、ということにする。


「第一条〔目的〕」

「はい」

「以上」

「以上って。目的は」

「読めない」


 ページを見せる。

 条番号と見出しは普通の字で、その下の本文は、字というより、雨に濡れた楽譜の上を猫が横切った跡だ。


「これ、字ですか」

「刻印文字。中二の僕が作った暗号。本文は全部これだ」

「鐘ヶ淵くんは読めるんですか」

「読めない。鍵は黒歴史ごと捨てた」

「自分で書いたのに?」

「自分で書いたから捨てられたんだよ。他人の字なら残してた」

「鍵を捨てたんじゃなくて、家ごと捨ててますよね」


 うまいことを言うな。

 僕の役だぞ、それは。

 彼女がノートを覗き込んだ。


 髪の先が、僕の手の甲に触れた。

 触れた、と思った次の瞬間、彼女のほうが先に気づいて、髪を耳にかけた。


 かけながら、半歩下がった。


「……近かったですか」

「規約に、距離の条文はない」

「ないんですか」

「ないと思う。見出しには」

「そうですか」


 そうですか、の声が、さっきより小さい。

 半歩下がったのに、手の甲はまだ髪の先を覚えている。


 覚えるな。

 今は作戦中だ。


「第七条〔呼称〕」


 第一段階。

 僕の解釈では「お互いを苗字で、省略せずに呼ぶ」。

 クラスで二番目にかわいい女子が、風紀委員を毎朝「鐘ヶ淵くん」と呼び続けることになる。


 教室で。

 全員の前で。

 これは帰る。

 普通は帰る。


「僕はきみを、もずさん、と」

「もずどり、です」

「え」

「鳥まで読んでください。三年になって二か月、ずっと"もず"だと思ってたんですか」

「思ってた。百舌鳥と書いて、もず。辞書がそう言ってる」

「じゃあ辞書と付き合ってください」

「辞書は告白してこないんだよ」


 いや、何の話だ。

 第七条の話だ。

 帰らせる話だ。


「じゃあ、私からも。かねがふち、くん。濁りません。みんな"かねがぶち"って濁らせますけど、鐘ヶ淵くんは濁らない。ケは小さいケです」

「よく知ってるね」

「去年の名簿係、三回直しました。私です」

「え」

「同じ教室に二か月いれば、覚えます。普通は」


 普通は、で、こっちを見た。

 負けた。

 口喧嘩じゃない。

 名前で負けた。


 四勝目までの僕なら言い返せたはずなのに、彼女が僕の名前を一度も濁らせたことがない、という事実に、言い返す言葉が一つも出てこない。


「第七条、同意します。鳥まで読んでもらえるなら」

「……読む」


 第一段階、失敗。


「第十二条〔身体的接触〕」


 第二段階。

 読み上げた瞬間、自分の声が裏返った。

 中二の僕は、こんな見出しを何のために書いたんだ。


 誰と接触する予定だったんだ。

 だがこれは効く。

 二番目とはいえ、かわいいほうから数えた二番目だ。


 そういう人が、中二病の男子の、身体的接触の条文なんかに付き合うわけがない。


 沈黙。

 自販機が、内部で何かを冷やす音を立てた。

 三秒。

 よし、帰れ。


 帰ってくれ。


「同意します」


 早い!

 いや、三秒あった。

 三秒で身体的接触に同意する人間がいるか。


「今、三秒で同意したよね」

「三秒も考えました」

「も、じゃない。三秒しか、だ」

「私、負けませんので」


 何にだ。

 何と戦ってるんだこの人は。

 見ると、耳が真っ赤だった。


 負けてる。

 もう負けてる。

 同意した本人の耳が、条文に負けている。


「……読めないものに同意するのは、鐘ヶ淵くんの理論だと、名前の書いてないプリンを食べるのと同じなんでしょうけど」

「なんで僕の理論を知ってるんだ」

「去年、教室で言ってました。冷蔵庫のプリンに名前を書かない奴は法律を知らない、って。誰も聞いてなかったですけど」

「聞いてたじゃないか」

「寒かったので、覚えてます。……あと、みんな笑ってましたけど、私は笑ってません」


 知っている。

 あのとき、笑わなかった人が一人だけいたのは知っていた。


 誰かは、見なかった。

 見たら、笑われた側だと認めることになるから。


 一年前のあの寒い話を、この人は一年間、覚えていたらしい。

 そう思ったら、胸のあたりが少しだけ軽くなった。


 軽くなったことは、条文には書かない。


「じゃあ言うけど、名前の書いてないプリンを食べたら、無罪だ。誰のものでもないから」

「知ってます。だから私、いま、名前の書いてない鐘ヶ淵くんを食べようとしてるだけなんですけど」


 言ってから、自分で赤くなった。

 赤くなってから、敬語が深くなった。


「食べようと、しているだけなのですけれども。比喩です。責任は、そちらに」

「責任転嫁を敬語でやる人、初めて見た」

「もともとです」


 もともとじゃない。

 さっきまで普通に喋ってた。

 負けず嫌いは、負けそうなときに敬語になる。


 校則には書いていないが、いま観察した。

 そして、今のは僕の負けだ。


 食べる、と言われて、僕の喉が、いらない唾を飲んだ。

 音がした。


 自販機が静かになったところだったので、たぶん聞かれた。

 第二段階、失敗。

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