第一話 交際規約に同意してください
「鐘ヶ淵くん。好きです。付き合ってください」
五月の、打ち上げの帰りだった。
駅まで信号が三つ。
その二つ目の手前、自販機の明かりの下だった。
呼び止められる十秒前から、僕は鞄の中に右手を入れていた。
理由は言わない。
言わないが、ファミレスのドリンクバーは店の真ん中にある。
メロンソーダを注ぐのに三分かければ、奥の席の話は、だいたい聞こえる。
だから、彼女が何を言うかは、知っていた。
知っていたのに、「好きです」と言われた瞬間、鞄の中で手が止まった。
一瞬だけ、本当かもしれないと思ってしまった。
思うな。
これは罰ゲームだ。
断れば、話は終わる。
終わるけれど、彼女は明日、奥の席の連中に「振られた」と報告することになる。
罰ゲームで告白させられて、そのうえ振られた女子になる。
それは、校則のどこにも違反していない。
違反していないのに、嫌だった。
「じゃあ、交際規約に同意してくれ」
「…………え。今、なんて」
言った。
言ってしまった。
クラスで二番目にかわいい女子に告白されて、開口一番に交際規約の話をする男が、この世に何人いるだろう。
たぶん僕一人だ。
一人でいい。
二人目がいたら、そいつとは友達になれる気がしない。
「交際規約。同意してもらう必要がある。付き合うなら」
僕、鐘ヶ淵綴は、鞄から黒い表紙のノートを取り出した。
彼女の顔が、はっきり引きつった。
ノートと僕の顔を、信じられないものを見る目で見比べている。
いいぞ。
その顔だ。
そのまま引いて、帰ってくれ。
角が丸くすり減っている。
表紙に、一行。
閲覧者は、汝の魂をもって同意したものと見なす。
「魂」
百舌鳥囁が、表紙の一行を声に出して読んだ。
読むな。
それは読むな。
声に出して読んでいいものは、この世に少ししかない。
「あ、読んだね。今きみは閲覧者になった。表紙の規定により、魂をもって同意したものと見なす」
「待ってください。私、告白しましたよね」
「した」
「返事をもらう前に、魂、取られました?」
「取ってない。見なしただけだ。風紀委員は見なすけど、取らない」
何を言っているんだ僕は。
ここで少しだけ、僕の話をしておく。
僕は風紀委員だ。
校則を全条、暗記している。
第一条から第八十四条まで、付則も含めて。
好きでやっているわけじゃない。
書いてあることは、裏切らないからだ。
人の気持ちは、書いていない。
書いていないものは、次の日には変わる。
変わったことを、こっちは知らされない。
知らされないまま、周りが笑う。
去年、一度それをやった。
教室で「冷蔵庫のプリンに名前を書かない奴は法律を知らない」と、本気で説明した。
名前を書く、というのは、約束を紙に残すということだ。
残しておけば、翌朝に裏切られない。
そういう話をした。
誰も聞いていなかった。
聞いていなかったのに、なぜか全員が笑った。
僕はそれ以来、大事なことは口で言わないことにした。
書いてあることだけを信じて、書いてあることだけで話す。
校則は、そのためにある。
もう一つ。
僕には、中学二年の一年間の記憶が、ほとんどない。
黒歴史だから消した、と人には言っている。
実際、その一年に僕が書いたものは、このノートしか残っていない。
百条の規約。
本文は暗号で、鍵は無い。
自分で書いたはずなのに、自分でも読めない。
読めないのに、捨てられなかった。
三年間、鞄に入れて持ち歩いている。
理由は、自分でも書けない。
だから、彼女に「好きです」と言われたとき、僕の頭が出した答えは、嬉しい、ではなかった。
「これは書いてない」だった。
少なくとも、頭ではそう答えた。
書いてあるものなら、裏切られない。
裏切られても、条文のせいにできる。
「『刻印ノ書』。全百条。僕が中学二年のときに書いた、交際規約だよ」
「中学二年」
「黒歴史だ。記憶からは消した。ノートは消えなかった」
「消えてないなら、現役ですよね」
言い返しが速い。
この人はこういう人だ。
百舌鳥囁。
クラスで二番目にかわいい、と言われている。
誰が数えたのかは知らないが、男子のあいだではそういうことになっていて、本人も知っている。
一番が誰かも、クラス全員が知っている。
「かわいい」と言われても、この人は返事をしない。聞こえなかったふりをする。ただ、「二番目」と言われたときだけは、目元がぴくっと動いて、一瞬、すごく悔しそうな顔になる。すぐにいつもの笑顔に戻すけれど、僕は毎回それを見ている。
人の観察が趣味なわけじゃない。
校則を暗記する人間は、教室でやることがないだけだ。
三年になって二か月、教室で四回口喧嘩をして、四回とも僕が勝っている。
勝っているのに、負けた顔を一度も見たことがない。
負けず嫌いが顔に出る前に、次の言い返しが出る。
そして四回とも、最後は敬語になった。
この人は、負けそうになると敬語になる。
負けを認めない代わりに、言葉の距離を取る。
取った距離のぶん、耳が赤くなる。
あと、パズルが好きだ。
昼休み、机の上でクロスワードを解いている。
誰も見ていないと思っているときだけ、最後の一マスを埋める前に、鉛筆を止めて、少し笑う。
埋める前に笑うのだ。
埋めた後ではなく。
理由は知らない。
聞いたこともない。
聞く関係じゃない。
書いてあることだけを信じる、と決めた人間が、書いていないことを一年ぶん、覚えていた。
覚えていることは、誰にも言っていない。
だから僕には、作戦があった。
作戦は三段階。
第七条で帰る。
帰らなければ第十二条で帰る。
それでも帰らなければ第六十条で、確実に帰る。
全部、見出しを読めば帰る。
中二の僕が書いた見出しは、それくらい恥ずかしい。
帰ってくれれば、この告白はなかったことになる。
それが一番、お互いに安い。
完璧な作戦だった。
完璧な作戦は、だいたい三十分で崩れる。




