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第二十二話 六十は、日数の話です

「嘘じゃない日の、六十日目です」


 バスの隣の席で、百舌鳥(もずどり)囁(ささやき)が両手を開いた。

 開いて、閉じて、また開く。

 六回やって、膝の上に戻した。


 七月の終わり。

 夏期講習の合宿へ向かう、バスの中だった。

 二泊三日。海の近くの研修所。

 中間試験の火曜から数えて、今日で六十日目になるらしい。


 六十。


 僕の頭の中で、黒い表紙のノートが勝手に開いた。

 第六十条〔同室時ノ自制〕。

 我と汝が同じ部屋にいる時は、何もしない。


「……今、何を考えましたか」

「何も」

「何も、は第六十条の言葉です」

「日数の話だろ」

「はい。六十は、日数の話です」


 百舌鳥は、窓のほうを向いた。

 耳が、じわじわ赤くなっていく。

 日数の話をしている人の耳ではなかった。


 念のため言っておくと、合宿の部屋は男女で階が違う。

 同じ部屋になることは、校則上ありえない。

 ありえないことを、二人で同時に考えていた。


 窓に映った彼女が、少しだけ笑っていた。

 僕は、笑えなかった。

 六十という番号が、頭から出ていかなかったからだ。


「おい鐘ヶ淵(かねがふち)! 部屋割り見たか!」


 通路をはさんだ席から、五月雨(さみだれ)が紙を振った。


「見てない」

「私、蛇ノ目(じゃのめ)と同じ部屋なんだけど!」


 後ろの席で、蛇ノ目傘音(かさね)が手を振った。


「よろしくね、式部」

「名前で呼ぶな!」

「じゃあ、五月雨さん」

「それも嫌だ!」

「何て呼べばいいの」

「呼ぶな!」


 五月雨は、五月から蛇ノ目と口をきいていない。

 理由を聞いたら、「あいつ、鐘ヶ淵で遊んでるだろ」とだけ言った。


 罰ゲームのことは、五月雨には話していない。

 それでも、何かは見えていたらしい。

 的外れな友人は、たまに的の真ん中だけを見ている。


「式部はさ、嘘がつけないから好きだよ」

「私は、お前が嫌いだ!」

「うん。知ってる」


 蛇ノ目は、にこにこしたままだった。

 嫌いと言われたのに、なぜか嬉しそうだった。


 午後の講習の最後に、英単語の小テストがあった。

 百問。


 配られる直前、蛇ノ目が五月雨の机を指でとんとん叩いた。


「ゲームしよ。点数の勝負」

「お前のゲームには乗らない」

「負けたほうが、勝ったほうの言うことを一個聞く」

「乗る!」


 乗った。

 一秒で乗った。

 「乗らない」の賞味期限が、一秒しかなかった。


 採点は、講師がその場でした。

 蛇ノ目、九十八点。

 五月雨、九十九点。


「勝ったあああ!」


 五月雨が椅子の上に立ちかけて、講師に座らされた。


 百舌鳥は、百点だった。

 答案の角を、僕にだけ、少しめくって見せた。

 僕は九十七点だった。

 誰にも聞かれていないので、誰にも言っていない。


「じゃあ、言うこと一個!」


 五月雨は、蛇ノ目の前に立った。

 さっきまでの大声が、急に低くなった。


「鐘ヶ淵に、謝れ」


 自習室が、静かになった。


 蛇ノ目の笑顔が、止まった。

 あの人が笑っていない顔を、僕は初めて見た。

 一秒くらいだった。


「……それは、ゲームで言われても、できないな」

「じゃあ、何ならできんだよ」

「ゲームじゃないと、もっとできない」


 蛇ノ目は、もう笑っていた。

 筆箱を閉じて、先に自習室を出ていった。


「なんだあいつ」


 五月雨が、僕を見た。


「鐘ヶ淵、あいつに何かされたのか」

「されてない」


 されたのは、百舌鳥のほうだ。

 でも、あの罰ゲームがなければ、僕たちは今、隣の席に座っていない。

 それを五月雨に説明する言葉を、僕は持っていなかった。


 夕食の前。

 ロビーの自販機で、コーンポタージュを探した。

 夏は、売っていなかった。


「え、なにそれ。黒っ」


 横から、知らない声がした。


 明るい茶色の髪をゆるく巻いた女子が、僕の鞄をのぞきこんでいた。

 制服が、うちの学園のものと違う。

 鞄の口から、ノートの黒い表紙がはみ出していた。


「閲覧者は、汝の魂をもって……え、なに、規約?」

「まあ、そうだ」

「じゃあ、同意〜」

「まだ何も読んでない」

「いいよいいよ。どうせ同意するし。そういうの、読まない派なんだよね」


 読まない派。

 百条を全部読み上げた人間の前で、言っていい言葉ではなかった。


「汐見(しおみ)さーん。手続きの人、来たよ」


 廊下から、引率の先生が呼んだ。


「はーい。じゃね、規約の人」


 汐見と呼ばれた女子は、手をひらひら振って行ってしまった。


 振り返ると、柱の陰に百舌鳥がいた。


「二学期から、うちに来る人だそうです。さっき、先生が話していました」

「見てたのか」

「たまたまです」


 一回しか言わなかった。

 本当に、たまたまらしい。


「……今の人、読まずに同意しました」

「そうだな」

「私は、全部聞いてから同意しました。百条、全部です」

「知ってる。読んだのは僕だ」


 百舌鳥は、自販機のボタンをじっと見ていた。

 口が、少しとがっていた。


「負けません」

「何に」

「同意の、重さに」


「重いな」と言ったら、「重くありません」と返された。

 耳が、赤かった。


 二十三時。

 男子の部屋は二階、女子の部屋は三階。

 同じ部屋の三人は、もう寝息を立てていた。


 電話が鳴った。

 布団をかぶって出る。


「……二十三時です」


 声が、ほとんど息だった。

 同じ部屋の子が寝ているから、囁いているのだ。

 耳のすぐそばで、名前どおりの声がする。


「窓、開けてください」

「なんで」

「開けてください」


 網戸を開けて、身を乗り出した。


 真上の三階の窓から、百舌鳥が顔を出していた。

 スマホを耳に当てたまま、小さく手を振っている。


 声は耳元で聞こえるのに、顔は三メートル上にある。

 どっちに返事をすればいいのか分からなくて、僕は窓のほうに手を振った。


「同じ部屋じゃないので、第六十条は、関係ありません」

「わざわざ言うな」

「言っておかないと、鐘ヶ淵くんが、また考えるので」

「考えてない」

「考えてます。顔が、見えるので」


 月が明るくて、彼女の顔がよく見えた。

 ということは、僕の顔も見えている。

 顔が熱くなるのが、自分で分かった。


 囁き声は、耳の奥に残る。

 「顔が、見えるので」が、頭の中で何度も鳴った。

 止めようとすると、もう一回鳴った。

 三メートル上の彼女は、僕の赤い顔を、今も見ている。

 そう思ったら、窓枠をつかむ手に力が入った。


「囁くの、上手いな」


 何気なく、そう言った。

 電話の向こうで、息が少しだけ止まった。


「……中学のころは、これしかできなかったので」


 三階の窓の彼女は、笑っていた。

 笑っているのに、声だけが、少し遠くなった。


「これしかって」

「明日、話します。今日は、同じ部屋の子が起きるので」


 窓が、静かに閉まった。

 電話は、切れなかった。


――――――――――

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