第二十話 焼き方は、私が決めます
「先輩! 前髪、切りました!」
月曜の昼休み。
教室の入口で、燕伊予が手を振っていた。
風紀委員の書類を届けに来たらしい。
期限は明後日なのに、今日持ってくる。
そういう後輩だ。
「おお。かわいい」
口が、先に言った。
「似合ってる。えらい。書類も早い。かわいい」
「ですよね! 自分で切りました!」
燕は、書類を僕に押しつけて、廊下を走って帰っていった。
廊下は右側通行だ、と言う前にいなくなった。
振り返ると、隣の席で、百舌鳥が弁当箱のふたを持ったまま止まっていた。
「二回です」
「何が」
「かわいい、が、二回です」
数えていた。
先々週の金曜と、同じ顔だった。
百舌鳥は、ふたを置いて、鞄から水色の表紙のノートを出した。
解読ノートだ。
ページをめくる指が、いつもより速い。
「第五十五条〔嫉妬ノ炎ノ取扱〕」
見出しを読む声が、少しだけ硬かった。
「我が汝以外の者を『可愛い』と言った時、汝は嫉妬の炎で我を焼いてよい。焼き方は、汝が決める。……我が鐘ヶ淵くんで、汝が私です」
焼いてよい。
中二の僕は、自分を燃やす許可を、交際相手に出していた。
「待て」
「待ちません」
「条文の『可愛い』は、漢字だろ」
「はい。漢字です」
「僕が言ったのは、ひらがなの『かわいい』だ」
完璧な屁理屈だった。
風紀委員は、文字の形にうるさい。
「声に、漢字はありません」
一行で燃えた。
前の席から、五月雨が椅子ごと振り向いた。
「また読めない条文で戦ってんのか!」
「今日は、読める条文だ。百舌鳥さんが」
「余計に負けてるじゃねえか!」
負けている。
でも、まだ見出しが残っている。
「じゃあ、見出しだ。〔嫉妬ノ炎ノ取扱〕。炎は、嫉妬から出る」
「はい」
「先々週の金曜、百舌鳥さんは言った。嫉妬は、していません、と」
百舌鳥の箸が、止まった。
「嫉妬していないなら、炎は出ない。炎が出ないなら、焼けない。第五十五条は、発動しない」
決まった、と思った。
彼女は、自分の言葉で自分を縛っている。
「していません」を守るなら、僕を焼けない。
焼くなら、嫉妬していると認めるしかない。
負けず嫌いの彼女が、認めるはずがない。
百舌鳥は、しばらく弁当箱を見ていた。
それから、顔を上げた。
「……しています」
教室の音が、一段、遠くなった。
「嫉妬、しています。あの金曜も、していました。あのときのは、嘘です」
耳が、真っ赤だった。
でも、同じ言葉を二回は言わなかった。
五月雨が、口を開けたまま、僕と百舌鳥を交互に見た。
僕も、口を開けていたと思う。
勝つつもりの理屈で、相手に本当のことを言わせてしまった。
これを勝ちと呼んでいいのか、風紀委員の僕にも分からなかった。
「では、焼き方を決めます」
百舌鳥は、ノートを閉じた。
声が、もう硬くなかった。
「燕さんに言った数だけ、私にも言ってください」
「……二回か」
「さっきのは二回です。先々週の金曜の三回も、入れます」
「遡るのか!」
「炎は、燃え広がるものなので」
五回。
僕がこれまで彼女本人に言ったのは、全部で三回だ。
それを、一日で五回。
「顔を見て、です。今日の帰りに」
「焼き方それでいいのかよ!」
五月雨が、机を叩いた。
「もっとこう、あるだろ! ビンタとか! 絶交とか!」
「それは、私が痛いので」
百舌鳥が、真顔で答えた。
五月雨は、それ以上何も言えずに、パンの袋を握りつぶした。
嫉妬のことを、やきもちと言う。
焼き方は、汝が決める。
彼女が選んだのは、僕のほうが焼けるやり方だった。
放課後。
下駄箱の前で、蛇ノ目傘音とすれ違った。
「規約くん、明日だね」
それだけ言って、蛇ノ目は靴を履き替えた。
「梨々花と千夏も、見に来るって。放課後の踊り場」
「見世物じゃない」
「うん。見届けるだけ」
蛇ノ目は、にこにこしたまま行ってしまった。
嘘はついていない。
あの人は、いつもそうだ。
帰り道。
駅までの、信号三つ。
「一つ目の信号で、一回です」
「刻むのか」
「一度に言われると、たぶん、聞こえなかった顔ができないので」
一つ目の赤信号。
彼女は、横断歩道の白線を見たまま、待っていた。
「……かわいい」
彼女の肩が、少しだけ上がった。
「一回目です」
二つ目の信号。
顔を見て、と言われたのを思い出して、横を向いた。
彼女も、こっちを向いていた。
「かわいい」
「二回目、です」
声が、半分くらいになった。
三回目と四回目は、同じ信号で言わされた。
青になるまでが、長かった。
彼女は、目をそらさなかった。
そらしたのは、僕のほうだった。
三つ目の信号。
最後の一回。
口を開きかけたところで、彼女が先に言った。
「待ってください!」
百舌鳥が、両手で自分の顔を覆っていた。
指のすき間から見える頬まで、全部赤い。
「燃えているのは、私です。これは、焼き方の、間違いです」
「決めたのは、百舌鳥さんだろ」
「……はい。なので、最後の一回は、明日にしてください」
明日。
火曜日だ。
信号が青に変わった。
彼女は、顔を覆ったまま歩きだして、白線を二本踏み外した。
改札の前で、彼女は指を一本立てた。
「明日です」
指は、震えていなかった。
代わりに、立てた指の先まで赤かった。
「放課後、踊り場で、言います。鐘ヶ淵くんは、何もしないでください」
「わかってる」
「最後の一回は、そのあとで、お願いします」
そのあと。
そのあとがあることを、彼女は、もう決めているような言い方だった。
帰りの電車で、僕は自分の手のひらを見た。
焼かれたのは、どこだったのか。
顔が、まだ熱かった。
二十三時。
電話は、一秒も遅れずに鳴った。
「二十三時です。……少しだけ、練習してもいいですか」
「何の」
「明日の」
電話の向こうで、息を吸う音がした。
「鐘ヶ淵くん」
そこで、止まった。
三十秒、何も聞こえなかった。
「……やっぱり、明日にします」
僕は、何も言わなかった。
何もしないでください、と言われている。
枕元で、火曜日が、あと一時間で始まろうとしていた。
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