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第十九話 開けないほうがいいと思います

 封印に爪をかけたまま、僕は寝ていた。


 起きたら、午後三時だった。

 頬に、ノートの角の跡がくっきりついている。

 右手の親指は、まだ封印の角にかかっていた。


 開けてはいない。

 封印に負けたのではない。

 睡魔に負けたのだ。


 負けた相手が一つ増えただけで、状況は何も良くなっていない。


 居間に降りると、母がテレビを見ていた。


「あら、生きてた」

「寝てただけだ」

「囁(ささやき)ちゃん、次はいつ来るの?」

「知らない」

「聞いといてね。お味噌、ちょっといいのを買っとくから」


 母は、一晩で、僕より先に次の予定を立てていた。

 僕の家の外交は、いつの間にか母の担当になっている。


 夜。

 机の上にノートを置いて、もう一度、封印の角に爪をかけた。


 書いてあることは、裏切らない。

 僕が書いたのだ。

 僕が読んで、悪いはずがない。


 時計を見た。

 二十二時五十九分。


 糊が、ぴり、と小さな音を立てた。


 その瞬間、スマホが鳴った。


 画面に、「百舌鳥(もずどり)囁」の四文字。

 僕は、ノートを閉じるより先に、椅子から半分落ちた。


「二十三時です」

「今日は、土曜だぞ」

「知っています」

「規約の適用外だ。第四十一条も、休みだ」

「はい。なので、これは規約の電話じゃありません」

「じゃあ、何の電話だ」


 少し、間があった。


「……ただの電話です」


 ただの電話。

 条文の番号がついているより、ずっと恥ずかしい言葉だった。


 一回だけだった。

 二回言わないなら、本当だ。


「かかってくるのが、一秒も遅れなかったな」

「スマホの時計が、正確なので」

「一時間前から画面を見てました、みたいな正確さだ」

「見ていません」


 すぐに、次の言葉が来た。


「……見ていました」


 言い直した。

 嘘をつく前に、自分で止めたらしい。


「見てたのか」

「土曜日は、規約がないので。何を言っていいのか、一時間、考えていました」

「それで、何を言うことにしたんだ」

「二十三時です、にしました」


 一時間考えて、いつもと同じだった。

 僕は、笑いそうになって、枕に顔を押しつけた。


「それで、鐘ヶ淵(かねがふち)くんは、今、何をしていましたか」

「……ノートを開いてた」

「どこを、ですか」


 言うかどうか、少し迷った。

 迷っている間に、口が動いた。


「最後のページだ。封印の角が、浮いてた」


 電話の向こうが、静かになった。


 息をする音も、聞こえなくなった。


「…………」


 五秒。

 十秒。


「開けないほうがいいと思います」


 それだけだった。

 声が、いつもより低かった。

 電話のせいではなかった。


「理由は」

「言いません」

「中身を、知ってるのか」

「それも、言いません」

「第零条だ。この規約の意味は、書いた者が決める。僕のノートだ。開けるかどうかも、僕が決める」

「はい。決めるのは、鐘ヶ淵くんです」


 あっさり認められた。

 解釈権で押し切るつもりが、押す前に扉が開いていた。


「なので、私は、お願いしかできません」


 お願い。

 規約でも、罰ゲームでもなく。


 この数日、彼女は、読める条文を全部読んできた。

 僕が読めないものを、次々に読み上げてきた。

 その人が、初めて、読まないでくれと言っている。


「……のりで閉じてあるだけだぞ」

「のりは、大事です」

「のり弁の話じゃない」

「のり弁の話は、していません」


 外したツッコミが、そのまま通話の底に沈んでいった。


「開けない」


 口が、先に言った。


「今日は」

「今日は、ですか」

「明日も、たぶん開けない」

「たぶん、は、書いてないです」

「書いてないことは、信じないんじゃなかったのか。僕が」

「はい。なので、今のは、私が信じます」


 スピーカーの向こうで、彼女が小さく息を吐いた。

 ほっとした音だと、電話越しでも分かった。


「鐘ヶ淵くん。昨日、寝てないですよね」

「昼に寝た」

「ノートの上で、ですか」

「なんで分かる」

「声が、ページの形をしています」


 どういう声だ。

 頬を触ると、角の跡がまだ残っていた。


「寝てください。今日は、先に寝ても負けません」

「じゃあ、百舌鳥さんから寝ればいい」

「私は、鐘ヶ淵くんが寝たら、切ります」

「それは、先に寝たら負けと、何が違うんだ」

「違います。今日は、勝ち負けじゃないので」


 勝ち負けじゃない。

 告白の夜から、彼女の口で、いちばん聞かなかった言葉だった。


「……何か、話してください」

「何を」

「何でもいいです。電話の声は、低いので。低いと、眠くなります」

「人の声を、子守歌にするな」

「子守歌は、書いてありません」


 仕方なく、僕は校則の話をした。

 第四十二条、廊下は右側通行。

 第四十三条、階段は駆け上がらない。


 第四十四条あたりで、電話の向こうから、小さな寝息が聞こえはじめた。

 僕が寝たら切る、と言った人が、先に寝ていた。


 切らなかった。

 切れなかった、のほうが正しい。


 寝息を聞きながら、僕はノートを引き出しにしまった。

 しまう前に、もう一度だけ、封印の角を見た。


 浮いている。

 さっき、糊がぴりと鳴ったところだけ、少し白くなっている。


 開けないほうがいい、と言った人は、理由を一つも言わなかった。

 言わないのに、声だけが低かった。


 僕は、引き出しを閉めた。

 閉めた音が、寝息を起こさなかったか、少しだけ心配になった。


 日曜の朝、メッセージが一件届いていた。


『先に寝たのは私です。今日は適用外なので、願いはありません』


 その下に、もう一行。


『封印、開けていませんよね』


 僕は、「開けてない」と打った。

 送ってから、引き出しを開けて、本当に開けていないか確かめた。


 確かめたくなるくらいには、あの声が、耳に残っていた。


――――――――――

お読みいただき、ありがとうございます。

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毎日12時と20時に更新しています。

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