第十八話 同じ部屋じゃないところで
土曜の朝、五時四十分。
結局、一睡もしなかった。
ローテーブルの上に、空のコップが二つある。
一つは、僕のだ。
もう一つの縁に、薄く、リップの跡がついている。
見なかったことにした。
見なかったことにしたものを、もう三回見ている。
眠れなかった理由を、順番に並べてみる。
風紀委員は、並べるのが得意だ。
一つ。
コーンポタージュが、僕の好物だと知られていた。
二つ。
知られていたのは、五月の夜、自販機の前で見られていたからだ。
三つ。
僕は、それよりずっと前から、彼女を見ていた。
三つ目で、手が止まった。
去年の四月から、見ていた。
負けそうになると敬語になるところ。
嘘の前に、耳が赤くなるところ。
クロスワードの最後の一マスを埋める前に、少しだけ笑うところ。
誰にも言っていない。
言う理由がなかったからだ、と思っていた。
でも、見ていた理由を、僕は一度も自分に聞いたことがなかった。
書いてあることは、裏切らない。
人の気持ちは、書いていないから、次の日には変わる。
だから、書いていないものは、信じない。
そう決めた僕は、自分の気持ちも、どこにも書いていなかった。
書いていないから、なかったことにできていた。
プリントの裏に、鉛筆を立てた。
月曜の夜に、願いを書いて、消したのと同じ紙だ。
一文字だけ、書いた。
書いた瞬間に、顔が熱くなった。
消しゴムで、紙が破れるまで消した。
書いてあることは、裏切らない。
だから、書けない。
書いたら、もう、なかったことにできなくなる。
破れたプリントを、ノートに挟んだ。
捨てられなかった。
僕は、自分の書いたものを、いつも捨てられない。
六時半。
台所から、味噌汁の匂いがした。
降りていくと、母と彼女が並んで台所に立っていた。
彼女は、母のエプロンをつけている。
ねぎを刻む音が、僕の家の台所なのに、僕の知らない速さだった。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
「お母様のほうが、早かったです」
母が、鍋をかき混ぜながら言った。
「囁ちゃん、手際いいのよ。つづりとは大違い」
囁ちゃん。
母は、一晩で、僕が一度も呼んでいない名前を呼んでいた。
第七条は、我と汝の話だ。
母は、どちらでもない。
ずるい、と思った。
何がずるいのかは、ちゃんと分かっていた。
彼女は、ねぎを刻む手を止めずに、耳だけ赤くなった。
「お母様。鐘ヶ淵くんの前では、それは」
「あら、だめなの?」
「だめ、ではないです。だめ、ではないです」
二回。
母には、その意味は分からない。
僕にだけ、分かった。
朝ごはんの味噌汁は、彼女が作ったものだった。
ねぎが、いつもより細い。
「どうですか」
「土曜は、規約の適用外だ」
「知っています」
「第二十七条も、適用外だ」
「知っています。なので、ひとことは、いりません」
いらない、と言われた。
言わなくていいことになった。
それなのに、二口目で、口が勝手に動いた。
「うまい」
彼女の手が、お椀を持ったまま止まった。
母が、見ていないふりをして、ものすごく見ていた。
「今のは、規約ですか」
「適用外だ」
「では、何ですか」
「味噌汁の感想だ」
彼女は、お椀で顔を半分隠した。
隠れていないほうの耳が、真っ赤だった。
書いていないことを、また一つ、言ってしまった。
言ってしまったのに、少しも嫌ではなかった。
九時。
駅まで、送っていった。
土曜日だ。規約の適用外の日だ。
並んで歩くのに、条文はいらない。
いらないのに、歩幅は、勝手に半分になっていた。
「今日は、第十八条は適用外です」
「知ってる」
「なのに、遅いです」
「寝てないんだ」
「私もです」
居間の布団で、彼女も眠れなかったらしい。
理由は、聞かなかった。
角を二つ曲がったところで、彼女が立ち止まった。
「ここは、同じ部屋じゃないですね」
「道だな」
「では、言います」
彼女は、リュックの肩ひもを両手で握った。
「昨日、何もしなかったのは、規約のせいだけじゃありません」
息が止まった。
「じゃあ、何のせいだ」
「言いません」
「言うって言っただろ」
「言いたいことは、一つだけ、と言いました。今のが、その一つです」
ずるい。
今日は、ずるい人ばかりだ。
彼女は、少しだけ笑って、それから、笑うのをやめた。
「それと、もう一つ。これは、言いたいことではなくて、報告です」
「二つ目じゃないか」
「火曜日まで、あと三日です」
彼女は、指を三本立てた。
先週と同じ数え方なのに、指が震えていなかった。
「傘音と、約束をしました。火曜日までに、自分で言うことがあります」
「……知ってる」
「知ってるのは、知ってます。だから、鐘ヶ淵くんは、何もしないでください」
何もしない。
第六十条と、同じ言葉だった。
「これは、私の番なので」
改札の前で、彼女は頭を下げた。
昨日、「おやすみなさい」を一回だけ言った人の顔だった。
家に帰って、ノートを開いた。
破れたプリントが、第九十九条のページに挟まっていた。
その先の、最後のページ。
糊で閉じた、封印。
角が、ほんの少しだけ浮いている。
前から浮いていたのか、今朝、僕が何度も開いたせいなのかは、分からない。
書いてあることは、裏切らない。
なら、ここに書いてあることも、裏切らないはずだ。
僕は、浮いた角に、親指の爪をかけた。
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