第十七話 何もしていないことを、確かめます
「お邪魔します。これで三回目です」
金曜の十九時。
玄関に、百舌鳥が立っていた。
右手に、教科書の詰まった鞄。
左手に、銀色の水筒。
背中には、見慣れないリュックを背負っている。
「三回目?」
「お母様に、ご挨拶をしました。門のところと、玄関の外と、今です」
「今のは、僕にだろ」
「うしろに、お母様がいらっしゃるので」
振り返ると、母が居間の入口から顔を半分だけ出していた。
出したまま、何も言わずに引っこんだ。
引っこんでから、「ごゆっくりねえ」と声だけが来た。
勉強会は、泊まりになった。
言い出したのは、母だ。
「遅くなるなら、居間に布団を敷くから」と、向こうのお母さんに電話までした。
僕の知らないところで、大人の条約が結ばれていた。
寝るのは、居間。
勉強するのは、僕の部屋。
僕の部屋は、狭い。
「では、読みます」
部屋の入口で、彼女は解読ノートを開いた。
「第六十条〔同室時ノ自制〕。我と汝が同じ部屋にいる時は、何もしない」
そこで、一度、息を吸った。
「何もしていないことを、互いに確かめ合う。……我が鐘ヶ淵くんで、汝が私です」
確かめ合う。
何もしていないことを、どうやって確かめるんだ。
「勉強は、何かに入るだろ」
「勉強は、何もしないうちに入ります」
「入らない」
「入ります。何もしていない人ほど、勉強してると言うので」
「それは、試験前の僕の悪口だ」
彼女は答えず、部屋に一歩入った。
入ったところで、止まった。
僕のベッドを見て、目をそらした。
顔が、はっきり赤くなった。
「座る場所は、ここでいいですか」
彼女が指さしたのは、ローテーブルの、いちばん僕から遠い角だった。
僕は、反対の角に座った。
対角線。
この部屋でいちばん長い距離が、一メートルもなかった。
二十時。
「英語の時制が、分かりません」
「どこだ」
「過去完了です。終わったことの、さらに前の話」
僕はテーブルの上に、参考書を滑らせた。
手渡しはしない。手渡しは、何かだ。
参考書は勢いがつきすぎて、テーブルの端から落ちた。
彼女が拾った。
拾う手が、テーブルの下で僕の靴下に当たりそうになって、止まった。
「今のは」
「当たっていません」
「当たりそうだった」
「当たりそうになるのは、書いてありません」
英語の時制より、僕の自制のほうが分からなくなってきた。
三十分ごとに、彼女は顔を上げた。
「何もしていませんか」
「していない」
「私もです」
二十一時にも、同じことを聞かれた。
「何もしていませんか」
「していない」
「私もです」
確かめ合う、の解釈は、これで決まったらしい。
二十三時ちょうど。
僕のスマホが鳴った。
画面に「百舌鳥囁」の四文字。
顔を上げると、テーブルの向こうで、彼女がスマホを耳に当てていた。
「二十三時です」
声が、二つ聞こえた。
目の前から一つ。耳元から、ほんの少し遅れて、もう一つ。
「同じ部屋にいるだろ」
「第四十一条は、声を交わすべし、です。電話の声のことだと思うので」
「目の前にいるのに」
「はい。目の前にいるのに、です」
彼女は、スマホに向かって、小さい声で話した。
囁く声が、正面と耳元の両方から来る。
逃げ場がなかった。
「鐘ヶ淵くんの声は、電話のほうが、低いです」
「前にも聞いた」
「今日は、比べられるので。やっぱり、低いです」
彼女は、比べるように、僕の顔と画面を交互に見た。
僕は、どちらを見ればいいのか分からなかった。
零時。
彼女が、水筒のふたを開けた。
湯気と一緒に、甘い匂いが部屋に広がった。
「夜食です。コーンポタージュ」
僕は、シャーペンを落とした。
僕の好物だった。
誰にも言ったことはない。
五月でも、冬の自販機の前に立つと、つい押してしまう。
「なんで、知ってる」
「五月に、自販機で買っていたので」
「あの夜のことか」
「あの夜の、少し前です。五月にコーンポタージュを買う人は、好きな人だけです」
好きな人。
心臓が、変な跳ね方をした。
「……コーンポタージュが、だろ」
「コーンポタージュが、です」
答えてから、彼女の耳が真っ赤になった。
自分の言ったことに、自分で気づいた顔だった。
コップを受け取るとき、指が触れそうになった。
二人とも、そこで止まった。
コップだけが、テーブルの上を移動した。
甘かった。
自販機のより、ずっと。
一時を過ぎたころ、彼女の頭が揺れはじめた。
一回、こくりと落ちて、戻る。
二回目は、戻るのが遅い。
三回目で、額がテーブルに向かって落ちていった。
手が出そうになった。
何もしない。書いてある。
僕は、手の代わりに、英単語帳をテーブルに滑らせた。
彼女の額が、ちょうど単語帳の上に着地した。
ぱっと、彼女が顔を上げた。
「今、何かしましたか」
「単語帳が、勝手に」
「確かめます」
彼女は、テーブル越しに手を伸ばして、僕の両手をつかんだ。
ひっくり返して、手のひらを見る。
指を一本ずつ、見る。
「何もしていませんね」
「今、してるだろ」
「これは、確かめているだけです」
確かめる手が、いつまでも離れなかった。
彼女の親指が、僕の手のひらの真ん中で止まっている。
「寝てたな。先に眠ったのは、百舌鳥さんだ」
「寝ていません」
「二回、言わないのか」
「二回言うと、嘘になるので」
彼女は、そう言って、ようやく手を離した。
一時半。
彼女は、教科書を抱えて部屋を出た。
廊下に一歩出たところで、振り返った。
「部屋を出たので、第六十条の外です」
「そうだな」
「明日の朝、同じ部屋じゃないところで、一つだけ、言いたいことがあります」
「今、言えばいい」
「今は、まだ、ドアが開いているので」
彼女は、自分でドアを閉めた。
閉まる前の隙間から、「おやすみなさい」が一回だけ聞こえた。
一回だけ。
本当のことだ。
部屋に残ったのは、空のコップと、額の形に少しへこんだ英単語帳だった。
開いていたページは、「promise」だった。
僕は、単語帳を閉じられないまま、朝まで起きていた。
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